• 三聖病院
    三聖病院は、三聖医院(前身)の5年間を合わせ92年間の長きにわたり、日本有数の森田療法専門の施設として、「生きた」森田療法を伝えてきた病院です。初代院長の宇佐玄雄先生は、早稲田大学哲学科に学び、禅僧を経て医師となった経歴の持ち主で、東京慈恵医専で森田正馬教授の指導の下精神医学を学んだ直弟子で、大正11年に東福寺山内に神経症専門の治療施設である三聖医院を開設されました。昭和32年、玄雄先生が他界された後は...
  • 森田療法と社会的活躍
    「社会的有能さを発揮する」という森田療法の治癒像を持っている人もいるかもしれない。症状にとらわれて悶々と引きこもっていた人が、森田療法で心機一転してバリバリと社会的に活躍できるようになった、というのは、ひとつの魅力的なストーリーではある。だが、「このように治るだろう」とか、「治ったらこうなるはずだ」という、描かれたストーリーからは、まったく無関係に、思わぬところから全治はやってくる。菩提達磨は、面...
  • 「忙裏閑」あるいは、「動かずに、動く」とは?
    「あるがままにあれ」、「そのまま」、「絶対降伏」、「計らいをしない」、「作為をしない」、「手出ししない」、「手を付けない」、「なにもしない」、など、修行・修養のあり方を教えた言葉がある。言葉を言葉として捉えて、自分に適用しようとすることは、「なにもしない」ことにはならない。「なにもしない」を言葉として自分に適応することは、例えて言えば、外出先から自宅までの道の途中で、「あ~、『なにもしない』のが修...
  • あるがままを受け入れる、ということ
    「あるがままを受け入れる」という言い方のおかしさに気づかれるだろうか。「受け入れる」という作為もないのが、真のあるがままである。「あるがままになる」も、おかしい。あるがままは、「する do」や「なる become」ではなく、「ある be」の領域だからだ。南泉は趙州に問われていう、「平常心是れ道」(あるがままが、大道である)「向かはんと擬すれば即ち背く」(わざわざそうなろうとすれば、すぐにそこから外れてしまう)...
  • 般若心経・私訳
    観自在菩薩が、大いなる悟りの行を行っていたとき、五蘊(肉体、感覚、思考、意思、認識の世界──自分が「ある」という思いの元)は、みな空(実体がない)と徹見せられ、一切の苦しみ災いを乗り越えられた。サーリープッタに説いて曰く、「あるものがない、ないものがある。あるということはないということであり、ないということはあるということである。肉体は実体がなく、実体のないものが肉体である。感覚は実体がなく、実体の...