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信心銘 (10) 「言語道断 去来今に非ず」

(原文)

有即是無 無即是有 若不如是 必不須守
一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢
信心不二 不二信心 言語道斷 非去來今


(読み下し)

shinjinmei10.png


(私訳)

「ある」はそのまま「ない」であり、「ない」はそのまま「ある」である。
もしこのようでないならば、そこにつかんでいるものを放しなさい。
一は即、一切であり、一切は即、一である。
ただこのようにあれば、どうして、何かが足りない、不十分だなどという思いが起こるだろう。
信心に「二(分離)」はない。「二(分離)」なし、がそのまま信心である。
…。
言葉で「道」を伝えることはできない。
それは、過去でもなく、未来でもなく、今でもないのだから。


(コメント)

どうでしょうか。
ここまで、熱心に読まれ、「我がこと」として参究された皆さまであれば、このような言葉にも、そのまま肯けますでしょうか。
大師からの、最終問題です。

有即ち是無、無即ち是有」。
趙州和尚、僧に「犬コロに仏性はありますか?」と問われて、「ムー(無)」と答えられた。

若し是の如くならずんば、必ず守ることを須いざれ」。
「ウー」即是「ムー」、「ムー」即是「ウー」。
そのようでないなら、まだ大事に何かを持ってるんじゃないか。
それを放しなさいよと。

一即一切、一切即一」。
一つが全部であり、全部が一つである。

但能く是くの如くならば、何ぞ不畢を慮らん」。
ただそのようであってみれば、何か足りない、不満足だ、不十分だ、といった考えは、起こる余地がない。

信心不二、不二信心」。
さとりに二つはなく、不二がそのままさとりである。

言語道断」。
ここまで、僧サン大師は、ぎりぎりの言葉で、「道」について、語ってこられました。
しかし最後に、「過ちをおかしてしまった」ことを、吐露されます。
言葉で「道」を表わすことは、できない。

去来今に非ず」。
それは、過去でもない、未来でもない、今でもないのだから。
金剛経に、三世心不可得(過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得)と言われるとおりです。

「そのようにある」。
徹底、それだけなのです。


(あとがき)

これまでつらつらと言葉を尽くしてきましたけれども、「法」、説かれた教え、経典・語録と呼ばれるものは、答え合わせです。
それらは、とても有難いものである一方、そればっかり暗記したり、それだけで理解しようとしたら大間違いを起こします。
ですから、書かれたことには、「何かがあるでもない、何にもないでもない」。
皆様お一人おひとりの、自己のうえで、本当かどうかと証明されることなのです。
各々が、ご自身のそのまんまの身の上で、確かめられることなのです。
お釈迦様の遺言、「自灯明、法灯明」というのも、そういうことです。
ですから、その時その時のご自身の様子に、「不二」となっていただきたいのです。もとより「別」なものはないのです。
必要な「教え」は、全部、ご自身の様子の上に揃っているのです。
「疑念」なら、「疑念」と不二なのです。「不安」なら、「不安」と不二なのです。「怒り」なら、「怒り」と不二なのです。
「見えた」なら、「見えた」と不二なのです。「音」なら、「音」と不二なのです。「触れた」なら、「触れた」と不二なのです。
答えにピタリと一致して、経典をその通りに読める、それが「信心」ということです。
何かを得るため、何かを掴むため、に読むということがなくなります。
「ふむ、ふむ」と言うて、終わりです。
今さら経典を読まなくても、「古松般若を談じ、幽鳥真如を弄す」。
・・・いや、わざわざ古松でなくてもいいんです。幽鳥でなくてもいいんです。

(「仏法のぎりぎりのところをお示しください」と請われて、)
洞山禅師「麻が三斤」。
趙州禅師「壁にヒョウタンが掛かっている」。

日常生活、そのままです。
真如法界、十方目前です。
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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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