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治すのは如来のわざでござる

最近、森田療法に関心のある人も含めて、会う人によく話していることがあるのですが、なかなか「そうだ」と肯定される人がいません。
悔しいので、ブログに書いておきます。

というのは、こういう話です。

(うつ病で、ご本人の希望により薬物療法を行わず、環境調整と精神療法のみで寛解した方がいました。)
患者さんになんで治ったんでしょう? と聞くと、「さあ・・・わかりません」
こっち(治療者)も、なんで治ったのか? う~ん、よくわからん。
(その時、その時で一生懸命に話を聞き、言えることを言ったということだけは言えるケド)
私の口をついて出てきたのは、「それは・・・良い治り方ですね。」

こういうのが上等の治り方じゃあないでしょうか。

これを、「治すのは如来のわざでござる」の境地と名付けます。

治療者側に、精神療法で「うまく治してやったぞ」というのが残るのは、眉唾です。
「私はこれで治りました」という確たるものをつかむこともなく、生活を送る。
立派なもんじゃないでしょうか。
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テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

信心銘 (9) 「真如」がすべてを包む

(原文)

真如法界 無他無自 要急相應 唯言不二
不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗
宗非促延 一念萬年 無在不在 十方目前
極小同大 忘絶境界 極大同小 不見邊表


(読み下し)

shinjinmei09.png

(注釈)
促延: (時間的に)短い・長い。
十方: 前、右前、右、右後、後、左後、左、左前、上、下の十方向。どこを向いても。


(私訳)

このような「真如」の様子においては、自もなく、他もない。
それを直ちに思い出したいのなら、ただ「不二」と言うがいい。
「不二」ならば、皆同じ、包容されないものはない。
時空を問わず、あらゆる智慧のあるものは、皆この教えの中で一つに溶け合っている。
この真理は、時空の大小を超えている。
そこでは、一瞬の想いと、万年の永さに違いはない。
あるでもなく、ないでもなく、手当たり次第、すべては目前にある。
芥子粒に宇宙大の広さがあり、その境目を忘れ去っている。
広大な宇宙がそのまま芥子粒として現れており、表面的なのものにとらわれることもない。


(コメント)

真如法界、他無く自無し」。
自己と他者、認識するものとされるもの、内と外など、ないというのが、この実際の様子です。
この「実際の様子」と、「ご自分」というものの、隔ては、ありますでしょうか、さあさあ!

急に相応せんと要せば、唯不二と言う」。
毛ほどの「隔て」が、天地の差。(「毫釐も差有れば 天地懸に隔たる」)。
この隔てのない様子に、ぴったり沿うにはどうするか。
「ただ不二と言う」とあります。

これまでに、一切の二項対立の消えたあるがままの世界を、「一種」「一空」「一乗」「一如」と、「一」をもって表わしておられることがありますが、同時に、「一もまた守ることなかれ」、あるいは、「(両すでに成らず、)一なんぞしかることあらん(=一も成り立たない)」とも言われます。
「一」ならば「一」も無くなってしまうので、「一」とも言えない、それが事実のありようとしてはっきりしたところから言いますと、「一」とも言わず、ただ「不二」と言う、とあります。

「何年も座禅修行したが、雷が怖い、どうすればいいですか」と、ある人に聞かれた盤珪禅師、
「驚きなばそのままにてよし。用心すれば二つになる」と答えたそうです。
徹底、今現れておる様子と一つになる。「そのものになる」、「なりきる」、「死にきる」、「○で○をすり潰す」、などいろいろな言い方があります。
「驚き」は、「驚き」。「怖い」は、「怖い」。それが真如法界、真実の様子です。
「様子」と、それを観測、判断、良し悪し、是非善悪を付けている「こちら」とを、二つにしない。二つでない。
「自」もなく、「他」もなし。
ひとつになりきれば、ひとつもなくなる。
「様子」だけ。
「急に相応せんと要せば」、それが一番早い、ということです。

不二の法門は、維摩経に詳しく、「維摩の一黙、雷の如し」と言われる場面は有名です。
私がここでごちゃごちゃ言うよりも、維摩経を読んでいただけると、よろしいかもしれません。
維摩経については、以前、こちらのサイトをご紹介しましたが、
最近、こんなサイトを見つけました。
超訳【維摩経】-超訳文庫
ファンキーです。維摩経の入門として、素晴らしいです。
「グレートなイス」、「ミラクルパワー」、「極上のランチ」…。訳のセンスが素晴らしいです。
楽しませる工夫が、随所に感じられます。
…ということで(笑)、過去読んでみようと思って、挫折したかたも、ぜひ一度読まれてみてください。

もう今回はこれくらいで終わりにしたいところなのですが…。(笑)
というのも、残りのところもすべて、維摩経のなかに、表現を変えて書かれているからです。

不二なれば皆同じ、包容せずということ無し」。
不二であれば、自と他、主と客、不安と安心、迷いと悟り、凡夫と仏…、などの一切の対立がないのです。
すべては、その中に、溶け合っている、そこに含まれないようなものも、ないのです。

十方の智者、皆此宗に入る」。
あらゆる「智者」と呼ばれる人たちは、実は、この「不二」という教えの中で、一つになっているのです。
お釈迦さまも、ボディーダルマも、老子も、イエス・キリストも、道元さん、親鸞さんも・・・
「不二」というただ一つの教えを、それぞれに、様々に、多様に、この世に現されただけなのです。

宗は促延に非ず、一念万年」。
この「教え」は、時間の長短を一気に超えてしまいます。
お釈迦様が菩提樹の下で座られていた時と、いまここと、区別がないんです。
一瞬と、永遠と、区別がないんです。
この、ただ今の一念が、万年を掌握し、万年の万物の営みが、この一念として、現れておるのです。

在と不在と無く、十方目前」。
これは、「ある」とも、「ない」とも言えないものです。
「ある」とか、「ない」とか、対象化される以前のハタラキだからです。
「あるでもない、ないでもない」からといって、「十方目前」。向かえばいきなりです。
どこに向かっても、何に向かっても、「それ」。

極小は大に同じく、境界を忘絶す」。
極大は小に同じく、辺表を見ず」。
ある日、臨済が普化とともに、お斎(法要後の食事)に呼ばれて行ったとき、そこで問います。
「(維摩経に)一本の髪の毛が大海を呑み込み、一粒の芥子の中に須弥山を収めるというが、これは、ミラクルパワーなのか、それとも本来のありのままなのか。」
普化は、いきなり食卓を蹴倒します。

さて、皆さまならどうお答えになりますでしょうか?

私が3歳の娘に聞きましたら、「本来のありのまま」と答えました。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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