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信心銘 (7) 「縁を忘ず」

(原文)

得失是非 一時放卻 眼若不眠 諸夢自除
心若不異 萬法一如 一如體玄 兀爾忘縁
萬法齊觀 歸復自然 泯其所以 不可方比
止動無動 動止無止 兩既不成 一何有爾


(読み下し)

shinjinmei07.png


(私訳)

得るとか、捨てるとか、正しいとか、間違っているとか、一切をいっぺんに放り出しなさい。
そうして眠らず眼を開いているならば、一切の夢物語は自ずから除かれる。
心にもし異なりがなければ、すべてのものは、一如である。
一如とは、奥深く妙なるものだ。そこにおいてぱったりと因縁は忘じられ、一切の因果は及ばない。
すべてはそのありのままの姿を現し、そのあるがままの状態に戻る。
その依って立つところの所以が尽きてしまえば、一切の比較も成り立たない。
動を止めようとするところに、動は無く、止を動じようとしたところで、止は無い。
一切の二項対立は成り立たず、そこに「一」すらも成り立つはずもない。


(コメント)

はじめに、私がここで、回りくどい説明・講釈を垂れておりますことについて、いくらか申し上げておきます。
皆様には、三祖のお書きになった原文そのままを、読んで問題のない人になっていただければ私としてはうれしいのです。
このコメント欄でお書きしていますのは、その際の解釈や意味の取り方で迷われた時のご参考に申し上げているまでのことだということです。
ここで申し上げていることが、妥当か妥当でないかは、皆様の身上で、証されることでありますから、よそを探すことのないようにお願い申し上げます。
禅では、「己事究明」と申します。徹底、「己の事」に参じていただきたい。

得失是非、一時に放却せよ」。
前段で、「夢幻空華、何ぞ把捉に労せん」とありました。
一切が「夢幻空華」、何も掴めるものはないのです。
しかしそう思えないうちは、何かを「得る」とか、「失う」とか、「良い」とか、「悪い」とかいうことを、全部いっぺんにほうりだしてごらんなさいと。ただこのまんま、いつもこの通りのぶっつけの事実です。
事実に遭って、事実に遭って…、赤ちゃんが初めて遭うようにです。
一切のことに初心者です。初心者になろうというのでもないです。ですからこそ初心者と申し上げるのです。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く」。
そのまんまの事実の通りでおったときに、居眠りをせず目を見開いておれば、おのずと、一切が夢であったと気づく時節があるのです。
ただぼーっとしておるのではなく、よく見届ける必要はあるのです。
見るといっても、徹底受け身です。
一切を徹底、操作を加えず、是非を加えず、起こるがままに起こらせておくのです。
「こういうものが見えるだろう」「なにかを見てやろう」という予期、想定が崩れ去ったところで(赤ちゃんの目で)、しっかりと目を見開いていたならば、あらゆる夢や迷いが除き去られるのです。
事実のほうから証されるところに、夢も迷いも除き去られます。

心若し異ならざれば、万法一如なり」。
「なりきった」ときに、すべては一体となり分離したものはなくなる。
心の認識の作用が、作用のままである時は、一切の現象と一体になって動いているのです。
畳なら畳、机なら机、笹なら笹と、即時一体です。
痛みなら痛み、怒りなら怒り、不安なら不安、喜びなら喜び、即時一体です。
そこに「観測する者」を立てることもできないのです。
「受ける者」もいないのです。
そのさまを、「正受は不受なり」と言っております。
受ける(ありのままを覚知する)ことで、受ける者がいなくなるのです。

一如体玄なり、兀爾として縁を忘ず」。
一体になっていると、不思議なもんです。
「兀爾」とは、諸々の縁をすっぱり離れた様子です。
「縁を忘ず」というのは分かりにくいかもしれません。
一体になって、受ける者のいない様子ですから、「自己を忘ず」と言っても、「他己を忘ず」と言っても、よいです。

「縁」というのは、仏教者にとって、一大問題です。
僧璨禅師は、成道される前には、業病に悩まされていたと伝えられています。
40歳を過ぎた頃、二祖・慧可のところへ行って「この病のもととなった罪業を清めてください」と願い出ます。
二祖は「清めてやるから、それをここへ出してみなさい」と言われます。
そこで、いよいよ抜き差しならない状況が極まって、僧璨禅師は、純一に自分の業(カルマ)というものを、探されたのです。
ほかでもない自分自身の問題として、自分を苦しめている「因縁」を見極めようとされたのです。
その努力が、純一に極まったとき、縁を忘じられました。

・・・結果、出てきた言葉が、
「罪業を求めていきましたが、ついに得られませんでした(不可得)。」
であった、と伝えられています。

釈尊の悟りは、「縁起の法」を悟った、とも言われます。
一般に、縁起とは、たとえば「目の前のご飯は、稲の種、大地、太陽、雨、人の労働、などを因縁として現れている、そのように万物はお互いにつながりあって存在しているのだ。『私』にしても、『私以外のもの』との相関関係においてしか存在できない。何かが独立して存在するということはできないのだ」といった意味に解釈されているでしょうか。だから「感謝しなさい、すべてはかけがえのない存在なのです」といった論調に流れることも多いようです。
しかし、「縁を忘ず」というのは、こういうのともちょっと違う、というニュアンスを、感じ取っていただけるとうれしいのです。
そのような、縁起とぷっつり離れきった様子に、ぽっと入る、というようなことがあるのです。

ついでに申し上げますが、「悟ったら因果の世界に落ちないのだ」と決めてしまうのを、「野狐禅」と言っております(参考: 無門関 第二則 「百丈野狐」)。
そのように決めてしまわないようにお願いします。

道元禅師の公案に、「薪と灰」の話がありまして。
面白いので、ちょっと長いですが引用します。
薪(たきぎ)が、灰になる。
灰がさらに返って、薪になることはできない。
このようにある様子を、灰はのち、薪はさきと見なしてはいけない。
しりなさい。
薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといっても、前後際断している。
灰は灰の法位にあって、のちありさきあり。
かの薪が、灰になってしまったのち、さらに薪とならないのと同じように、人が死んだのち、さらに生にはならない。
このようにあるのを、
生が死になるとはいわない、これは仏法においてはさだまったならわしである。このゆえに不生という。
死が生にならないのは、仏教においてさだまった説き方である。このゆえに不滅という。
生も一時のくらいである、死も一時のくらいである。
たとえれば、冬と春のようなものだ。
冬は春になるとおもわず、春は夏になるといわないのである。

道元 「正法眼蔵」 現成公案の巻より (現代表記に改変)

薪は薪、灰は灰。
因縁をころっと離れた世界、ぶっつけです、いきなりです。

万法斉しく観ずれば、帰復自然なり」。
そこで、「万法」、すべての現象が、「斉しく観ずれば」、まったくの価値づけなく、そのまんまに観えてくるんです。
まったく比較なく、ランク付けなく、ものがものとして、そのまんまが観える、ということが起こってくるんですね。
「帰復自然」、一切合切が、自ずから然らしむる、当たり前のものに帰る。
古来、「柳は緑、花は紅」と言うてることです。
理由も、原因も、結果も、考え方も、好みも、なんにもなく、いきなりの「緑」です、「紅」です。
そう見えるまでは、ず~っと考え方、因果関係の領域で世界を見ていた。
「柳は緑、花は紅」 。

当たり前のことです。でも、当たり前が当たり前にそのまんま見える、っていうのはただごとじゃあないんです。比べるものもないくらい、大変なことです。

其の所以を泯ぜば、方比すべからず、動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し」。
それは、比較が、もとそれが起こる「所以」が、尽きてしまうのですから、大変なことなのです。
これまで、止めようとしていた動が無いんです、動かそうとしていた止が無いんです。
安心させようとしていた「不安な心」が、解消しようとしていた「いやな気分」が。
解決をつけなけらばならないと思っていた、あらゆることが初めから解決の要がなかったんです。

元の木阿弥です。ただの人になり崩れる。
仏になったのではないのです。ただの人になりおおせたのです。だからこそ、「仏」と言われるのです。
ただの人を、臨済禅師は「無事の人」と言われます。そして、「無事これ貴人」。
なんてことのない、ただそのままでおられる人が、最も貴い存在であることに気付くのです。
殺仏殺祖、仏と衆生の垣根も取り払われます。
だからこそ、釈尊は菩提樹の下で、「明星出現の時、我と大地有情と同時に成道す」と言われたんです。

両既に成らず、一何ぞ爾ること有らん」。
「止」と「動」の両方がすでに成り立たないのに、「一」などということがどうして成り立つだろうか、と。
大師は「一があるともみなしてはいかんぞ(一も亦守ること莫れ )」と言われていました(信心銘 4)。
しかし、「両」も成り立たず、「一」も成り立たない。
実相は、もとよりそのような様子であったということです。
そこには一切とどまらない闊達な、ピチピチとした、生の活動、躍動が起こるのみです。

その融通無碍な世界の描写は、次回へと続きます。
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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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