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苦痛・煩悶の離脱のふたつの場合

かのデュボア氏などの説得法のように、理論的説明に重きをおいて、患者に対して「病に対する恐怖を念頭より去るべし」とか、「自信を起こせ」とか、「医者を信じろ」とか言うのは、世間一般に言う言葉であって、単に常識的方法に過ぎない。例えば、悲しい時に嬉しく思えとか、空腹のときに満腹の感じを起こせと強要するのと同様である。

そもそもわれわれの精神の活動は自然の現象であって、人為によってこれを自由にすることのできないものである。水の低きにつくことや、夏の暑さや、冬の寒さは人力をもって如何ともすることはできないのと同じことである。

しかるに人々は愚かにも、自分の心を、自分の心で自由自在にすることができるように思い違えているのである。
我々の外的刺激によって起こる感覚、気分などはもちろん、失念や、突然の思い出し、ないし夢や睡眠などにしても、みな必ず因果の法則に支配された自然の現象であって、決して人為的に意のごとく変化させることのできないものである。無念無想となろうと思えば既にその一念を付加することになり、勇気とか自信とかいうものも同じことで、これを獲得しようとして得られるものではない。

これと同じく苦痛とか煩悶とかいうものも、これを脱却しようとしても思う通りにならないのみならず、かえってますますこれを拡大するのみである。

それではこれを離脱するにはどうすればよいか。
それはただ、あるがままにあらせておくということである。

しかしなお詳しく言えば、これには二つの場合がある。
一つは苦痛も煩悶も、そのあるがままになりきることである。言い換えれば、わが心の眼を閉じて、素直に、あるがままに任せ切っていることである。
一口にいえば、絶対に降参し、往生することである。

第二の場合は、苦痛に対して注意の眼を開き、その状況をあるがままに正しく観察し、叙述し、批判しようと試みることである。このようにすれば、その苦痛は自然に客観的なものとなり、主観の執着を離れて、初めてこれを離脱することができる。
それはあたかも対岸の火事を見るようなものである。幽霊のほうに近寄って、その正体は枯れ尾花であったことを見届けるのと同じ道理である。

これに反して、自己の苦痛を周囲の人に訴えて同情を求め、ねぎらってもらおうとしたり、人は自分の苦痛を理解してくれぬとか、同情がないとか言って恨みかこち、あるいはいたずらに苦痛を回避しようと工夫しては、心はますますそのほうに執着して、苦痛はいよいよ増大するのみである。

以上述べたところを要約すれば、神経質治療の主眼とするところは、まずその思想の矛盾を打破することにありということである。
それではこの思想の矛盾はどのようにして打破することができるか。
それは簡単なことで、すなわち人為の策を放擲して、自然に服従することである。
人為の工作をもって、自由に自分の心を左右しようとすることは、あたかも水を高いところにやろうとするように、いたずらに苦痛を増し、煩悶を重ねるのは当然のことである。

であれば、自然とはなんであるか。
夏は暑く、冬は寒く、苦しい時には苦しく、悲しい時には悲しい、これである。
それを、夏は涼しくありたい、冬は暖かにありたい、苦しい時に楽にありたい、悲しい時に悲しむまいと思うのは人情であるが、これがすなわち人為的というのであって、そのあるがままに素直に服従し、これに堪えるのが自然なのである。

昔、洞山和尚が「寒暑到来す如何んが回避せん」との某僧の問いに対して、「何ぞ無寒暑の所に行かざる」と答えた。
それは暑さ寒さのない所はどこにもない。それを避けようとするのはもってのほかだ、ということである。
しかしこの僧はまだその意味が解らないで、重ねて「何處にか無寒暑の所ある」と愚問を発した。
洞山和尚そこで大喝一声「寒の時は闍梨(身体)を寒殺し、熱の時は闍梨を熱殺せよ」と言って、その僧を悟らせたということである。
身体を寒殺、熱殺とは、寒さ暑さにそのまま、なり切れということであって、すなわち寒暑超越の境地を言ったものである。
かの快川和尚の「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言ったのも同様で、暑い時は徹底暑さであり、寒い時は徹底寒さである。しかるに暑さには避暑を思い、寒さに避寒を考えるから、寒暑の苦痛をいやがうえにも増すばかりである。

要するに神経質者は、些細な不快や、当然の苦痛にあまりに関心を持ちすぎ、自分自身の気分に基づいて理想の型に当てはめようとするところに、精神葛藤の苦痛を起こすのである。
すなわち人生の華やかさとか、安穏、気楽さばかりを追って、人生の真の目的、真の楽しみを忘却しているのである。
努力あって成功あり、苦しみあって楽しみあり、悲観あって楽観あることを知らないのである。
それで患者の訴える苦悩そのものは、そもそもその初めの心の置き所を誤ったがために、ますますその苦悩を増長せしめたものであるから、これをもとのありのままの自然に還元すれば、苦悩はたちまち消散するのである。
自然とは、人生の実際の事実であって、これをそのありのままに観、人生は人も我もともに苦痛であると覚悟して、苦しきを苦しみ、悲しきを悲しみ、喜びを喜べばよいのである。

宇佐玄雄 「説得療法」 p61~65 神経質治療の要旨 より (現代表記に改変)


三聖病院初代院長で、森田正馬の初期の弟子の一人だった、宇佐玄雄先生の著書は現在絶版になっていますが、国立国会図書館デジタルコレクションで、閲覧することができます。ありがたいことです。
上に引用したところは、「心を将って心を用う、豈大錯に非ざらんや」(信心銘)との共通性がみられます。
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テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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