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信心銘 (6) 「心で心を解決しようとする、なんという大錯誤であろうか!」

(原文)

欲趣一乘 勿惡六塵 六塵不惡 還同正覺
智者無為 愚人自縛 法無異法 妄自愛著
將心用心 豈非大錯 迷生寂亂 悟無好惡
一切二邊 妄自斟酌 夢幻空華 何勞把捉


(読み下し)

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(私訳)

唯一無二の救いの道を歩みたいなら、五感と想念の世界を嫌ってはいけない。
それらを邪魔ものにしないということは、かえって正しい覚りと同じなのだ。
智慧のある者は無為であり、愚かな者は自分で自分を縛りつける。
真実は今ここにある全世界そのものであり、真実でないものなど、実は存在しない。
世界がそのように見えない者は、真実だ虚偽だとみだりに区別して愛著する。
(そのような、区別立てする)心で心を(対象として)扱うなど、なんという大間違いであろうか。
そのように迷っていてはどこまでいっても、安心と不安の対立を生む。
悟りに、好悪はない。
すべての二項対立は、測ってみたり、照合してみたり、比較してみたりすることに余念がない。
夢幻、虚空に浮かぶ華のようなものを、なぜわざわざ捉えようと苦労するのか。


(コメント)

全10回の信心銘も、後半に入ってまいります。

一乗に趣かんと欲せば」。
世に、小乗、大乗をはじめとして、さまざまな宗派、宗教、教えがあります。
それは、数え切れないほどでしょう。
しかし人間が「生きる」ということの苦悩を、解決する道、その本質は、ひとつです。
あちらが正しい、こちらが間違い、と言って迷うことは、なかったのです。
ただひとつの道。
あなたが、そこに至ることを要求するのならば、です。

六塵を悪むことなかれ」。
「六塵」は、仏教で色・声・香・味・触・法の六境をいいます。
つまり、目、耳、鼻、舌、身体、こころ、の諸々の感覚や想念が捉える「対象」です。
仏教では一般に、これが苦しみの元である、執著のもとである、と教えられます。
それは、「結果」から見れば正しいのです。
しかし、悟りの知恵が生じないうちは、そう聞くとただ知識でそうだと決めつけて、諸々の感覚や想念を「嫌う」あるいは、信心銘の最初でいえば、「揀擇」することになります。
神秀が、「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と言われたのに対し、
慧能が、「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」と言われたように、
「六塵」として、憎むことはないんだ、ということです。
そのような態度で、修行しなさいと。

六塵悪まざれば、還って正覚に同じ」。
そのようにあれば、正しい覚りを得ていると同じことだ、と言われます。

智者は無為なり」。
本当に智慧のある者は、無為であります。
無為というのは、究極のものです。「あるがまま」とも言います。
一日中ぼーっとして寝ている、というのを無為だ、と勘違いしないでください。
「計らわない」という言葉の方が近いかもしれません。
無為にして、大きな働きをやってのけるのです。人の役にも立つのです。
内にも外にも、流れとひとつになっています。だから、エネルギーのロスがない、というイメージもひとつです。
流れのまま、手を下すことがない、というと、イエスが「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」と言われたように、何をされても無抵抗、というイメージをまた描く人もいるかもしれません。
「無為」にして、そういうありかたもあるでしょうが、なかには、殴り返すことだってあるかもしれません。
「こうなればこうする」、というひとつの型にとらわれることも、「無為」ではありません。
維摩経に、「不来の相にて来、不見の相にて見る」とあるも、無為を表したものです。
無為の相にて、ことを為すのです。

それに対し、「愚人は自縛す」。
愚かな人は、流れに掉さして、自縄自縛に陥る、と言われます。
あるがまま、そのままになれないから、なにか「別のもの」を求めたり、「別のもの」になろうとして、あがくのです。
それが、そのまま苦悩になっているのです。

法に異法無し、妄りに自ら愛著す」。
無為であってみれば、法=真実の教えとして、それとは別の「真正でない教え」として、区別立てするようなものも、ないのだと。
「古松般若を談じ、遊鳥真如を弄す」という言葉がありますが、ウグイスの鳴き声が、そのまま、お釈迦様の説法に等しいものであると気づくのです。
そうなれないのは、迷妄の中にあって、「自分」が正邪を作り出し、区別立てを作り出し、とりわけ「これが正しい」というものに、愛着し執着しているのだ、それだけのことだよと言いたいのです。

心を将って心を用う、豈大錯に非ざらんや」。
そういった、区別立てをして、「正しいあり方」、「理想的な状態」、に自分で自分を当てはめていこうとするのです。
それは、心でもって、心をどうにかしようとする、問題を解決しようする、まったくの自縄自縛の大間違いではないか。
これは、僧サン禅師ご自身も、修行の過程でおおいに苦しまれた問題とみえ、嘆かれています。
心で心の問題の解決は、出来ないのだと、はっきり宣言されているところです。

迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し
迷いの中にいるときは、心が静まったといっては喜び、乱れたといっては落ち込みます。
「理想的な状態」を想定して、そこに適うのを良しとすれば、一喜一憂。
喜んだり落ち込んだり、安心したり不安になったり、決して安心にとどまることはできません。
悟れば、安心を求めず、不安を苦にせずで、安心と不安は一挙に解決してしまうのです。
どちらを良しとし、どちらを悪しとする、ということ自体が、無くなるのです。
それを、「大安心」と言ったりもします。

一切の二辺、妄りに自ら斟酌す」。
そのように、「安心」と「不安」など、一切の二項対立というものは、ただもう、ひとつを立てるだけで、それとは別のものとの比較、測定、照合という、際限のない迷いの世界に深入りしていくものです。

夢幻空華、何ぞ把捉に労せん」。
それら、夢幻(ゆめまぼろし)、虚空に浮かぶ華のようなものを、なぜわざわざ捉えよう、掴もうと苦労するのか、と。
禅師の悟りの境涯からこそ、言える言葉です。
決して、虚無主義(ニヒリズム)ではありません。

本当に一乗、唯一の根本的な救いの道を歩みたいならば、この境涯を、確かなものに、していただきたいのです。
それは、この世に人間として生を受けたものとして、受けることのできる、最高の宝、祝福なのですから。
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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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