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信心銘 (5) 「放てば自然(じねん)」

(原文)

大道體寬 無難無易 小見狐疑 轉急轉遲
執之失度 必入邪路 放之自然 體無去住
任性合道 逍遙絶惱 繫念乖真 昏沈不好
不好勞神 何用疏親


(読み下し)

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(私訳)

大いなる道は、実にくつろいだものとしてあり、難しいということはなく、易しいということもない。
しかし視野の狭い者は、これを疑い怪しむ。急げば急ぐほどに、ますますその歩みは遅くなる。
これに執着すれば節度を失い、必ず邪路(=不幸な道)に入ってしまう。
むしろこれを掴まず、手放してしまえば、おのずから、あるがままのものが現れてくる。
大いなる道は、無くなってしまうものでも、特定のすがたをとどめるようなものでもない。
あなたのあるがままに、そのままうち任せれば、きちんと「道」に適う。
目的地もなく、ぶらぶら歩いていながら、あらゆる苦悩が絶たれる。
思いを何か特定の(良い)ものにとどめようとすることは、真実のあり方に背くし、
(何にもとらわれないようにと)ボーッとしているだけならば、(ありのままをそのまま見ることを)嫌がっているのだ。
(ボーッとして楽をしているように思うかもしれないが、それは)嫌がっているぶん、神経は疲弊してしまう。
どうして、そのように特定のあり方にとどまろうとしてみたり、嫌がったりするようなことをするのか。


(コメント)

また今回は、前回までの「境地」の説明から、やや「修行法」寄りのお話に戻ります。
「道」に適うあり方、というものが示されてまいります。

前段では、「空」が、一切合財を、等しく、分け隔てなく含んでいる、どこに分け隔てして守るべきものがあろうか、というところで終わりました。

大道体寛にして」。
「空」という「大道」は、それだけ隔ての無い拡がりのあるもので、また寛いだ、と言うてもいいような、ゆったりさ、鷹揚さ、といった様子を特徴として備えておるわけです。
難無く易無し」。
それは、一切の対立概念を超えてあまねくいきわたっておるわけです。
そこには、「難」も「易」も出る幕なしです。
仏道は「中道」と言われます。楽でもない、苦でもない。

この信心銘の一番初めの出だしが「至道無難」でしたね。
「無難」と言われたら、「じゃあ、易しいのかしらん?」と、見解でもってみてしまうのが普通です。
ですから、そう言いながら、ここでは、「無難無易」、難しくもないし、易しくもない、と。
「易」にも捕まるなよ、と言われます。

「大道」、まあ「至道」と同じことですね、は、隔てなくいきわたっておりまして、難しいの易しいの、と言えないくらい、「丸出し」になっておるともいえるし、「難しい」とも「易しい」とも、どのようにも決めてかかることのできない、何かに属するというように言えるものでもないのです。

しかるに、「小見は狐疑す」。
この「丸出し」のものを、「人」は、狭い見解に押し込めて、そのまんまに信じられないんですね、
用心深く、疑り、納得できないんです。
それで、「転た急なれば転た遅し」。
自分の見解で、「こっちのほうが早く解決が付くだろう」「何とか解決を付けなければ!」と、急ぎ、焦るんですね。
釈尊も、出家をされて6年間、難行苦行に打ち込んだのは、「何の問題も起こさないような人になろう」「愚かなことに引っかからないような人になろう」として、煩悩、欲とか怒りとかをなくそう、なくそうという方向で、それこそ命がけで解決しようとなさったんですね。
ところが、急げば急ぐほどに、「道」からは遠ざかり、歩みは遅くなってしまっていたんですね。

之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る」。
これに執着すれば歯止めが利かなくなって、必ず邪路入ってしまう。
「善」なら「善」、「真実」なら「真実」、「空」なら「空」、「悟り」なら「悟り」、そういったもっともらしいものでも。
それに執着すれば、必ずわき道にそれてしまうのです。

では、どのようにこの「大道」を歩めば良いのか?

之を放てば自然なり」。
放つ。
六祖壇経に「放下著」という、有名な禅語があります。
「捨て去ってしまえ」、「手放してしまえ」という意味ですね。
これが「一物不将来の時、如何?」(「全部捨て去って、何にも残っておりませんが、(この私の境涯は)どうですか?」)と聞かれた時の、六祖の答えだ、というのが面白いですね。
「一物不将来」というものを大そうに持っとるんじゃないか、とやるわけです。

これを全部手放してしまえば、自然(じねん)であると。
おのずからしからしむる、おのずからそのようである、「道」そのものである、とうことが、ハッキリとしてくるんです。

お釈迦様も、菩提樹の下で、正覚を得られた時は、もう「何かになろう」ということを、全部捨てられたんです。
あらゆる苦行をやり尽しても、どうにも解決がつかなかった。
煩悩という激流を、渡ろうとされました。渡って、涅槃に入ることを目指されて、大変な苦労をされた。
それでもう全部、「放って」しまった時に、「自然(じねん)」ということに気づかれたんです。

「放てば自然」。なぜと言うと、
体に去住無し」。
この実体、実相というものは、ないでもない、あるでもない。
「去」=しっかりつかんでおかないと無くなってしまうとか、「住」=なにかひとつのはっきりした姿を描ける、といったものでは、ないからであります。

たとえば、目の前のお茶を飲むのに、茶に触れれば茶の味がはっきりする、その味覚というものは、触れればいきなり現れる。どのように考えたり想像したとしても、考えより実物に触れる方が確実でしょう。
その「触れる」ということの確実性が、なにかつかまないとなくなってしまうようなものではないではありませんか。見ること、感じること、思うこと、全てにおいて、もう向かえばいきなりある、絶対無くなりようのない、迷いようのない世界が、「即」、インスタントに現前しているのです。
「放てば」、すぐそこにあるのに、気づかなくて、苦労するんです。

性に任ずれば道に合う」。
「性に任ずる」とあります。
「性」その人その人の、ユニークなあり方、性質というものが、そのまま「法」=「真実」の現われとしてある、その「ありよう」に、いちいちうち任せておれば、「道」に適う、と言うのです。
美しいものを「いいなあ」と思う、苦痛なものを「嫌だなあ」と思う。それだってそのまんま「性」です。
茶の味にしたってそうです。自分のありようは、自分に起こるハタラキとして、任せておれば、間違いようはないんです。

景徳伝灯録に、「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば、無喜亦無憂なり」という言葉があります。
「転ずる」まま、「流れに随う」まま、で、「性に任ずる」様子です。

逍遥として悩を絶す」。
その人のそのまんまに打ち任せる、ということは、もうその「性」のほかに、「どうなってやろう」とか、「もっとこういうふうになってやろう」とか、別を求めることが無いんです。
「どこかに行こう」という、「今ここ」の自分のありよう以外のものを、何か標準を定めて、求めているんじゃないんです。
(ここで「今ここ」、と仮に言っておりますが、「今ここ」という何か標準があるんでもないですよ。)
ですから、「逍遥」。何かを目的とする、ということなく、気ままにぶらぶら歩いているだけで、あらゆる苦悩が絶してしまうのです。

道元禅師が、「いわゆる坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり。」(普勧坐禅儀)と言われるところです。
あるいは、「ただわが身をも心をも はなちわすれて 仏のいへになげいれて 仏のかたよりおこなはれて これにしたがひもてゆくとき ちからをもいれず こころをもつひやさずして 生死をはなれ仏となる」(正法眼蔵 生死)と言われます、「ちからをもいれず、こころをもついやさず」の様子でもあるのでしょう。

繫念は真に背く」。
「繫念」というのは、心の状態なり想念なり意識の対象なりを、特定のものに結び付けておこう、ということでしょうね。
「修行」や「修養」をしよう、という人の多くは、始めはここから入るのです。
何か特定の「良い」意識の状態を保とう、とするわけですね。
「利他行をする」でも、「戒律を守る」でも、「仏様を思い浮かべる」でも、「念仏、真言を唱える」でも、「慈悲の心を保つ」でも、「呼吸を観察する」でも、悪いことではないんですけども、「真に背く」と。
「特定の良いあり方」というものを標準にして、そこを目指している限りは、「真実のあり方」には背いている、信心銘冒頭の言葉でいえば、「揀擇」している、ということを言われているんです。

これは相当厳しいことを言われているんです。
というのも、こういった「繫念」でも、やろうとすると、ほとんどの人はうまくいかないんです。
たとえば、「呼吸を数える」なんていうことも、実際やってみようとすると、頭がぼんやりしてきたり、眠くなって居眠りしたり、ということが、起こってくる。まあ経験しない人はいないんじゃないでしょうか。

昏沈は不好なり」。
「昏沈」というのが、その頭がぼんやりしていたり、ウトウトしているような状態ですね。
何か「特定のものに縛られてはいけない」などと言われますと、ただボンヤリしている、というのが、本人としては正しい修行をしている、といったカン違いを起こすようなことがある。これを、いさめておるわけです。
それは、「不好」であると。「今」の「そのまま」のあり方から、わざわざ目をそむけておるのだ、と。

不好なれば神を労す」。
目をそむけて、そこから離れようという「心」が生じておる分、神経を疲弊させているのだ、ということです。
本人は、ボンヤリして、「楽な状態だった」と思うかもしれないが、本当は神経をすり減らしておる。
安心と不安が同時に解決されておる、「大安心」とは、そのようなものではないのです。意識は、醒めているのです。

何ぞ疏親することを用いん」。
「疏親」というのは、なにかを疎んでみたり、親しもうとしてみたりする、ということでしょう。
どうして、「繫念」のように特定のあり方にとどまろうとしてみたり、「昏沈」のように「今のそのままの様子」を避けようとしたりするようなことをするのか、ということです。

「繫念」は特定の目的を持って歩く、「昏沈」はわざわざ立ち止まる。
三祖大師は「逍遥」という言葉で、いずれでもない「中道」を指し示しておられるようです。

お釈迦様は、「煩悩という暴流を、どのように渡りましたか?」と聞かれて、「立ち止まることなく、力むことなく」とも表現しておられます。(「サンユッタ・ニカーヤ」;参考
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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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