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信心銘 (3) 「返照」 ~万法に照らされる~

(原文)

歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見
二見不住 慎勿追尋 纔有是非 紛然失心


(読み下し)

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(私訳)

「根=もとの様子」に帰れば玄旨(肝心なところ)を得、(対象を)認識して分かったことに従えば大事なところを失う。
「根=もとの様子」に少しでも教わるならば、空だと分かったつもりになっていたものなど超越してしまう。
わかったつもりの「空」が、あれやこれや変化するのは、皆妄見による。
なにが真実なのかを求めることさえ用いず、ただあらゆる見解を離れなさい。
是非・善悪・有無などの二見に住せず、慎んで、見解でこねくり回すことを止めなさい。
わずかでも「是非=よしあし」があれば、紛然として心(大事な真実)は失われてしまう。


(コメント)

前段で、「絶言絶慮」という修養の態度が示されました。
言葉じゃないんです。考え方じゃないんです。それを絶したところです。それでおのずと見えてくるものがあるでしょうが、見えたものをつかんで、縛られるなよ、ということが、今回のところのひとつの趣旨と言えるんじゃないかと思います。

はじめに、「根に帰すれば旨を得」とあります。「旨」は、第1回で出てきたところの「玄旨」と同じと解して良いでしょう。
「根に帰する」とは、それほど大事なところですが、どんなことを言っているんでしょうか。

仏教で「六根」といえば、「眼耳鼻舌身意」を指しますので、この、6つの感覚作用、私らの認識のもとになっている作用ですね、目なら目、耳なら耳、鼻なら鼻、そういったものに映ってくる様子、これに「帰する」、というのが、まあひとつの解釈。

もうひとつは、「根」を、仏教用語ではなく、一般的な用法として、「おおもとの事実」の意ととる解釈。
信心銘全体が、専門的な用語を極力使わず平易な言葉で書かれているので、むしろこちらが妥当かもしれません。
前段にいう「絶言絶慮」──ことばや思慮分別を離れた、それ以前の──、手のつかない「もとの」様子、ですね、まあこちらも感覚作用に限定しない、というだけで、どちらにしろ、言葉や思慮の手がつく前の、「もと」のいちいちの様子ですわね。
見えてくるものでも、音でも、苦しい感覚でも、いいんで、そのまんまの感覚に、赤ちゃんのように、何も手が付かず、そのまんまにしている、そういった様子でおった時に、玄旨が得られますよ、と。

照に随えば宗を失す」。
一方で、何かこっちから見たもの、認識したものですね、これを「照」と言うておりますが、それに従えば、「宗」、大事なものが、いっぺんに失われてしまうと。
見えたものが、あーだとかこーだとかね、なんでも意味をつけたがる。「これが悟りだ」とか「これが究極の苦しみからの解決策だ」とかいうことも、「わかったこと」、「つかんだこと」、全部「照」です。そのために、全部「わや」です。

須臾も返照すれば」。こっちのほうから「照」、認識・観測するんじゃないんです。
「根」、今の自分自身が触れてる感覚、事実のほうから、仏祖本来の面目が明らかになるんです。

「須臾」、ちょっとでも、そういうところに、思いがけずにふっと入りますと、「前空に勝却す」。
「前空」というのは、空に証せられる以前の「空」。前段で「空に随えば空に背く」と言われておりました、なにか「こういうもんだろう」として、得た「空」、つかんだ「空」を言うておりますね、そういった「わかった空」を乗り越えられる、ということです。

このあたりに関連する言葉を、道元禅師のことばからみてみましょう。

自己を運びて万法を修証するを迷となす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
(正法眼蔵 ~現成公按の巻~)


「自己を運びて万法を修証する」が「照」、「万法すすみて自己を修証する」が「返照」、ということです。
普勧坐禅儀にも、「須らく回光返照の退歩を学すべし」とありますね。

万法に照らされてはっきりする、
ここでいえば、「根に帰する」ことではっきりする。
わかったことに従ったんじゃないんです。
それ以前の、あらゆるものに触れている「事実」に帰ることよって初めて、「旨」がはっきりしたんです。
「返照」、少しでもその「事実」の、「ほうから」照らされれば、頭でわかっておった「空」なんてものは、「ナァ~んだ、絵に描いた餅だったんじゃないか。いくら眺めておったって、腹がふくれる道理がないわ」とはっきりするんです。
それを道元禅師は「万法に証される」と言うたんです。

釈尊の教えは、頭で理解してわかるもんじゃないんです。
この身で起こる、痛み、音、見えたもの、指一本の動き…。そういう、ものをどうこう考える、見解以前の「事実」、そのものに触れてはっきりするんです。

それで、「前空の転変は 皆妄見による」。そのはっきりしたところで初めて、これまで「これこそ正しい」と思っておった、「この人、この教えこそ自分を救ってくれる」と頼っておった、「わかった空」・「本物と思い込んでいた空」が、あれやこれやとその時その時で移ろい変わっていったのは、みな「妄見」であったからなのか、と腑に落ちるのです。
それで、もう他のものに尋ねていく、求めていくことに、徹底、用がなくなるのです。真の自由人です。

ですから、僧サン禅師は、「真を求むることを用いざれ」。真実を求める、何がもっともらしいか、何が正しいか、そんなことを求めることはやめなさい。
ただ須らく見を息むべし」、ただ、一切の見解を持つことをやめなさい、と、老婆心から言われております。

二見に住せず」。より物事を、はっきりさせよう、確かなものにしよう、しっかりしたものにしよう、として見解、考え方で、真実らしいもの、正解らしいもの、確かなもの、ぶれないもの、聖なるもの、などを、なにか「実体」としてあるかのように想定するようなところに「住せず」、
慎んで追尋することなかれ」。そのようなものを追いかける、憶測する、詮索する、そのようなことも、慎んで、やめなさいと。

わずかに是非あれば」。比較ですね、こっちの方がよいだろう、とか、悪いだろう、とか、ましだろう、とか。
そんな「善し悪しの判断」がちらっとでもあれば、
紛然として心を失す」。
ここでいう「心」とは、私たちが個々に持っていると思っている「こころ」をいっているのではなく、「道」とか「玄旨」とか「宗」とかと同じで、「大事なこと」「本質」といった意味合いですね。仏教的に言ったら「仏心」のほうです。
それが「紛然として」、ごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃになって失われてしまう、と。

私がこのブログで以前にも書きましたけれど、荘子の「混沌(渾沌)に穴を穿つ」話を思い出します。

南海に儵(しゅく)という帝王がおり、北海には忽(こつ)という帝王がいて、中央に混沌という帝王がいた。
ある時儵(しゅく)と忽(こつ)が混沌の地で会って、混沌に大変歓待された。
そこで彼らは混沌の徳に報いんとて、お返し案を練った。
「そうだ、人間には眼・耳・口・鼻という七つの竅(穴)がある。
それで人間は視たり、聴いたり、食べたり、呼吸することができるのだ。
ところが混沌にはそれがない。
ひとつ、穴をあけてあげたらどうだろう」。
そこで二人は、毎日一つずつ、混沌の身体に穴をあけていった。
が、七日目になると混沌は死んでしまった。
(荘子・応帝王篇第七)


混沌には穴がない、六根がない、と喩えられております。
これはまさに「無眼耳鼻舌身意」の即今(儵も忽も、ほんの一瞬という意味があります)で、有と無、是と非などあらゆる二極が、出会い、超克される様子を象徴しています。
そして、それを大切にするなら、わざわざ穴をあけてはいけません。

混沌を前にして、「知らなさ、わからなさ、きめられなさ」に慎んでおれるか、ということが問われております。

次回は、この荘子の話でいえば「混沌に会う」の様子が、示されてまいります。
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信心銘 (2) 「絶言絶慮 無処不通」

(原文)

莫逐有縁 勿住空忍 一種平懷 泯然自盡
止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種
一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空
多言多慮 轉不相應 絶言絶慮 無處不通


(読み下し)

shinjinmei02.png


(私訳)

「もの」を認めて、その因縁を追ってはいけない。
「もの」などないといって、「空=ない」を認めたところに住してもいけない。
一種(ものとひとつ)のそのままの様子でおれば、「もの」も「空」も、自ずから尽きてしまう。
動を止めて、止に落ち着こうとすれば、止はさらにいよいよ動いてしまう。
動でも止でも、ただどちらか一方に滞ってしまっては、どうして一種ということが知れようか。
一種に通じなければ、両所に本来のハタラキを失ってしまう。
有を捨てようとすれば有に没し、空に従おうとすれば空に背く。
言葉を用い、あれこれと考えで何とかしようとすれば、まったくもってうまくいかない。
言葉を使わず、思慮分別をしなければ、通じ(本来のハタラキが躍動し)ない場所はない。


(コメント)

前段では、「玄旨を識る」ということが出てまいりました。
修行者にとったら、僧サン禅師からの問題提起であります。
はたして、「玄旨を識る」とはどういうことなのか?
今回のところでは、「玄旨」の内容が、懇切丁寧に示されています。

はじめに、「有縁を逐うことなかれ」とあります。
「縁」。因縁、因果関係、成立条件、などと言うてもよいですが、端的に表現すれば、釈尊が「これがあるとき、あれがある。これがないとき、あれがない。これが生じるとき、あれが生じる。これが滅するとき、あれが滅する」と言われるのが、「縁」であります。
物事の因果関係から、法則性を見出し、生活を向上させてきた、という人の営みがあるわけです。
また仏教でも、「縁起の法」と言いまして、苦の起こる因果を見究め、苦を滅するということが、とても重要な教えとして広く認められておるわけです。
ひとまずそれはそれでよろしいとしましても、「自己本来の面目を知る」という修行の態度からしますと、「こうであるから、こうである」という法則をみつけだして、自分の心にその解決法を応用する、というような態度では駄目なんですよ、と言われているんですね。
縁は縁として、見えてくることもあるかもしれないけれど、「逐うてはならん」と。見えたら、見えたまま。

それで、「空忍に住することなかれ」。
「空」という、「ものごとに実体というものはないんだ」という教えをですね、「そうなんだ」というような考えで持っておってもいけないんだ、というわけですね。
「空なり、空なり」と言うたって、棒でしたたか打ちつけられたら、痛いでしょう。
それくらい、「そのもの」に触れてる様子は、しっかりしてるのですから、「痛み」なら「痛み」の、その瞬間瞬間、ハッキリしたものと「ひとつ」の様子ですわね、ここで「一種」ということですが。
何も特別なことはない、平生の様子ですわね、そのまんまでおったら、「泯然としておのずから尽きる」と。そのような、見解で作ったようなものは、コロッと、跡形もなくなくなってしまうと、まあこういうことが、ハッキリしてもらいたいんですね。

「動を止めて止に帰すれば、止はさらにいよいよ動ず」。
不安な心を安心に変え、安心ばかりにしようとすれば、不安がさらに不安を呼び起こす。
前段で「いたずらに念静を労す」と言われていたところですね。

仏道が瞑想、あるいは坐禅という大問題を打ち立ててしまったばっかりに、もう当時から、心の動きを止めようとして討ち死にする人が多かったんでしょう。
そりゃ、坐禅というものがちっともわかっておらんのです。
心の動きを止めて、静寂に至る、その静寂が本質だ、などと言うたら、その口をひねりあげてやるぞ、動だの静だの、両端の世界にとどまっていては、どうしてありのままを知れようか、と言われます。

あるがままに通じなければ、両端のうま味もハタラキも失ってしまう。
「有」が「有」としての役に立たず、「空」が「空」としての役に立たず。結果、空振り、失敗、不幸、苦しみの自家発電、自己連鎖です。
「有」、ものの実体の世界ですね、あるようにある、見える、聞こえる、感じる、考える、そういった現れておるものを、捨てよう、捨てよう、避けよう、避けようとしたら、かえってその、ものの世界、因果の世界に埋没してしまう。
かといって、「ものの実体は空なり」と言うてですね、「感覚の世界、感情の世界、思考の世界、そんなもの、実体はないんだ」と言って、そういう考え方に従っておるようでは、かえって「空」に背くと。

要は、考え方、言葉で作られた概念の世界、考え方での取り扱い、をしている限りは、どんどん今の事実のありようからは遠ざかっていくんですね。
そういった、言葉で作られた概念、考え方での取り扱い、を絶したところに、すべてのものを生かすハタラキが現れてくる、釈尊、達磨大師、それら祖師方のありようにも通じ、全宇宙にも通ずるということがあるんです。

「多言多慮 転た相応せず、絶言絶慮 無処不通」。
どうぞこの言葉の通り、味わってみてください。

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Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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