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信心銘 (1) 「至道無難 唯嫌揀擇」

(原文)

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜
圓同大虚 無欠無餘 良由取捨 所以不如


(読み下し)

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(私訳)

究極の道に、難しいことは何もない。ただえり好みを嫌うだけだ。
ただ「これが良い」とか「これは嫌だ」ということがなければ、(大道は)カラッとして明らかだ。
そこに毛ほども「差」(分別)を生じれば、たちまち天と地ほどはるか隔たってしまう。
現前(悟り)を得ようとするなら、「これに従う」とか「これは駄目だ」ということもあってはならない。
「いい」だの「悪い」だのと相争う、これを心の病という。
玄旨(究極のところ)を知らなければ、徒に心の葛藤を鎮めようと苦心するばかりだ。
(玄旨の)完全であることは、全くの空虚と同じで、欠けることろもなければ余るところもない。
(そこから外れて)取捨選択をするばっかりに、「如(そのまま)」になれないのだ。


(コメント)

今回から、全10回に分けて、三祖・僧璨(そうさん)大師(鑑智禅師とも呼ばれます)の信心銘を取り上げます。
三聖病院では、診察室に入ると右上の壁にこの信心銘の全文が掲げてありました。
「至道無難 唯嫌揀擇」、「絶言絶慮 無處不通」、「言語道断 非去来今」などその一部は、講話でとり上げられたり、院内の彫刻に刻まれたりしていました。
是非、全文通して味わっていただき、禅が中国で本格的に興隆する以前の時代、三祖が率直に表現された精髄に触れていただきたく思い、わが身をも顧みず講釈を垂れてみたいと思います。

別の解説も見てみたいという方のために、OSHOによる講話をご紹介しておきます。
書籍は現在絶版ですが、内容はこちらのブログから読めます。
また、井上義衍老師による信心銘の提唱も書籍化されており、お勧めですが、こちらも現在一般の書店では手に入りにくいようです。
川上雪担老師による信心銘提唱が、こちらから見られるようです。
二祖(慧可)と三祖(僧璨)の、まみえた様子はこちら
三祖と四祖(道信)の、まみえた様子はこちら

さて、内容に入ります。

「道(タオ)」とは、中国では究極のもの、根源的な実在、事実・真実に生きるさま、などを表しており、老子によれば「名付けることのできないものである」ともいわれるものです。
そのようなあり方は、いかにも難しいように思われがちですが、「何も難しいことはない」、と言われております。
ただ、「揀擇=選り好み」をしないだけだ、と。
「これは良い」、「これは駄目」ということだけがなければ、ハッキリしてるじゃあないか、というわけです。

「毛ほども差があれば」、これはわずかでも、そのままを肯えない気持ちが生じれば、そのわずかな違いで天地の差を生み出してしまう、と言われます。
「ものとひとつになる」「ものとひとつである」という事実徹底のあり方からすれば、いくらそれに近いような状態であろうと、わずかでも「差」、「隔て」、があれば、天地の隔たりなのです。

「うけてまつ手をすれすれにちる紅葉」という、虚白禅師の句がありますが、「うけてまつ」ほうには、いくら待とうと、どれだけ「良い」待ち方をしようと、紅葉は手に入りません。
いくらすれすれであろうと、決して、「紅葉」は、わがものにならないのです。
手に入ると手に入らないでは、天地の隔たりがあるんじゃないでしょうか。

また、「夢の内の有無は有無ともに無なり、迷の内の是非は是非ともに非なり」と言われるように、徹してみるまでは、それが天地の隔たりとは、思えないかもしれません。

その「徹する」ということを、身をもって知りたいと思うならば、「順逆を存することなかれ」、この方法、あの方法、こちらは正しく、こちらは誤り、これには従うが、これには従わない、など、あってはならない、と言われます。

一切が無条件なのです。

「これは良い」、「これは悪い」、といって相争う、これは心の病だよと。これは精神疾患だけのことを言っているのではありません。
そんなちんけなもんじゃありません。私もあなたも、人類皆の心を言っております。

「玄旨」、大事なところを識らなければ、「より良い心の状態」を目指して、徒労に徒労を重ねるだけだと。

「一波をもって一波を消さんと欲す、千波万漂、交々起こる」とも言います。
心を鎮めようとするまさにその努力が、心を千々に乱れさせます。

そのような努力が、起こらない様子を「円(まどか)」と言うております。

「円」とは、完全である、ということです。完全であり、過不足がない。
究極のものが、完全であるさまは、無であると同じで、不十分で何かを足さないといけないようなこともなければ、邪魔にして何かを捨てなければならないようなこともない。
実に、良いものを残そうとしたり、いらないものを排除しようとする、そのことだけが脱線であり、あるがまま・そのままになれない所以なのだ、と言われています。

「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す これを苦楽超然といふ」(森田正馬)。
「苦痛を苦痛す」。これを「円」と言うております。
「喜悦を喜悦す」。これを「円」と言うております。

ここまで、「唯嫌揀擇」というただ一つのことを、言葉を変えて色々に表現されています。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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