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三聖病院

三聖病院は、三聖医院(前身)の5年間を合わせ92年間の長きにわたり、日本有数の森田療法専門の施設として、「生きた」森田療法を伝えてきた病院です。

初代院長の宇佐玄雄先生は、早稲田大学哲学科に学び、禅僧を経て医師となった経歴の持ち主で、東京慈恵医専で森田正馬教授の指導の下精神医学を学んだ直弟子で、大正11年に東福寺山内に神経症専門の治療施設である三聖医院を開設されました。
昭和32年、玄雄先生が他界された後は、息子の宇佐晋一先生が二代目院長として、禅と森田療法を同一筆法とする三聖病院の伝統を推し進められ、理論・学習、つまり「知ること、わかること」を離れた、「実証・体得」を重んずる、本来の森田療法の趣旨を深化され、近年「わかりやすい」方向に流れがちな森田療法の潮流にあって、その独自性は際立っていた感があります。

しかし、世の流れか、平成26年12月に惜しまれつつ、閉院されることが決定されました。
なお、閉院以後も、自助組織である三省会例会は従来通り奇数月の第2日曜に継続されるそうです。

ささやかですが、三聖病院という稀有な病院のひとつの記録を、ネット上にとどめておきたいと思います。


外観

三聖病院は、JR・京阪の東福寺駅から徒歩3分の位置にあります。


正面玄関

正面玄関です。


池

玄関の前の池。鯉がたくさん泳いでいます。


玄関 照顧脚下

照顧脚下


廊下 生死事大

生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人


廊下 努力即幸福

努力即幸福 (森田)


作業室 努力即幸福

努力即幸福


作業室 全景

しゃべる人は治りません 院長
たった一人の集団生活
平等施一切


作業室 歩々是道場

わからずに居る 努力即幸福 歩々是道場 談話厳禁 日々精進


作業室 事実唯真

事実唯真 真実


作業室 なにでもないもの
なにでもないもの
作業室 言語道断非去来今
言語道断非去来今(信心銘)
作業室 眼横鼻直
眼横鼻直(道元)


作業室 六祖截竹図

六祖截竹図


作業室 随処作主立処皆真

無条件幸福 心に用事なし 求全治不可能 随処作主立処皆真


作業室 謹於言而慎於行

謹於言而慎於行


食堂 五観文

五観文
一 功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二 己が徳行(とくぎょう)の全欠 忖(はか)って供(く)に応ず。
三 心を防ぎ過(とが)貪等(とんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。
四 正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
五 道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為に当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。


診察室 宇佐晋一院長

平成26年12月27日、閉院の日の宇佐院長。
87歳でなお現役。
「最後の挨拶」に訪れる人多数で、昼食の暇もなし。
診察はいつもと変わらず、一切事に手抜きをされず、一人一人に礼を尽くす。
診察が終わってもなお膨大な書類の処理を黙々とされ、夜は更ける。
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テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

森田療法と社会的活躍

「社会的有能さを発揮する」という森田療法の治癒像を持っている人もいるかもしれない。
症状にとらわれて悶々と引きこもっていた人が、森田療法で心機一転してバリバリと社会的に活躍できるようになった、というのは、ひとつの魅力的なストーリーではある。

だが、「このように治るだろう」とか、「治ったらこうなるはずだ」という、描かれたストーリーからは、まったく無関係に、思わぬところから全治はやってくる。

菩提達磨は、面壁九年と言われる。

9年の間、慧可が現れるまでは、ただ座っていて、僧がすべき、教えを説くという仕事すらしなかった。

それでももちろんこの時点において、すでに達磨は悟っていた。

全治してのち、まったく社会的役立たずになってしまった。

このような「全治」を、あなたは許容できるだろうか?

「忙裏閑」あるいは、「動かずに、動く」とは?

「あるがままにあれ」、「そのまま」、「絶対降伏」、「計らいをしない」、「作為をしない」、「手出ししない」、「手を付けない」、「なにもしない」、など、修行・修養のあり方を教えた言葉がある。

言葉を言葉として捉えて、自分に適用しようとすることは、「なにもしない」ことにはならない。

「なにもしない」を言葉として自分に適応することは、例えて言えば、
外出先から自宅までの道の途中で、
「あ~、『なにもしない』のが修行だった」と考えて、立ち止まるようなものである。

もともと、立ち止まったままでは困るから歩いている

のだから、この場合、「そのまま歩き続ける」が、「なにもしない」ということだ。

「歩く」という足のハタラキ、その自然良能、大道のハタラキ、にお任せする、それを邪魔しない、ということだ。

それで、自宅に帰れるのである。

道元禅師の、「ちからをもいれず こころをもつひやさず」

それは、忙しく働きまわっているときでも、暇でぼんやりしているときでも、それらの中間でいる時でも、いつもかもの様子として、そのようにあるということが、修行であり、「ほとけ」というホームに帰ることである、というお示しであろう。

「忙裏閑」とは、忙しい仕事の合間合間にホッとする暇な時間がある、ということではなく、
忙しいハタラキの真っただ中に実現する、心はまったくの暇、という無心のハタラキを示しているように思われるのである。
それが、森田療法における全治者のハタラキである。



ところで森田療法では、
「なにもしない」という指示を概念として受け取って、「働くこと」からの回避を続けることになっては具合が悪いので、
「症状(不安)」とか、「自分」とか、「心」とか、「生き方」とかを相手取った「内向き」の対処、解決、計らいをせず、
「ものの観察」、「他者にとって役に立つこと」、「勉強」、「仕事」、など、「外向き」には、神経質を発揮し、四方八方気を配り、工夫を凝らし、計画を立てて、ドキドキ・ハラハラしたまま、前進せよ、と指示する。

完全欲・支配(コントロール)欲・野心の強い、森田神経質の者に対しては、こういった「外向き」の積極的な働きが、本来のその者の性格をよく発揮することにつながる。

一方で、こうした欲望の乏しい者には、「外向き」「外向き」と叱咤しすぎることは、できない自分とのギャップに余計悩むことになり、自尊心の低下を招き、適応しづらい印象がある。

そもそも、「内向き」の心を、わざわざ「外向き」に、向け変える、などということ自体が、「心」を操作できるもの、と見なした誤った作為的観念にすぎない。

そこで、「外向き」にも「なにもしない」ことを徹底させる絶対臥褥期であっても、庭に出てものを観察する程度でほとんど作業を指示されない軽作業期であっても、無条件に全治が成り立っているということを、実証・体得することの重要性が浮かび上がってくるのである。

「無条件に」というのは、「キチンと指示通りにできたから」とか、「これだけ家事・仕事ができたから」、「人の役に立てたから」という条件すら、本当はない話なのである。

そのような条件を立てれば、「結果」に縛られることになり、「努力即幸福」という森田正馬の言葉が示したものとは、天と地ほども隔たってしまうのである。

それは条件ではなく、そのような「努力」が生じざるを得ない、という事実にただ服従しているだけなのである。

あるがままを受け入れる、ということ

「あるがままを受け入れる」という言い方のおかしさに気づかれるだろうか。
「受け入れる」という作為もないのが、真のあるがままである。

「あるがままになる」も、おかしい。
あるがままは、「する do」や「なる become」ではなく、「ある be」の領域だからだ。

南泉は趙州に問われていう、
「平常心是れ道」(あるがままが、大道である)
「向かはんと擬すれば即ち背く」(わざわざそうなろうとすれば、すぐにそこから外れてしまう)

「自分」とか「心」とかいうものに、一切手出しをしない。
本当はそれだけでいいのだが、それを「かくあるべし」として受け取った「人」は、今度は「一切手出しをしない」ということを「する」、あるいは「しようとする」。

徹底、「一切手出しをしない」であれば、「手出しをしない」もなく、それを認識する「人」もない。
「手出しをしない」は、「動かない」ことだが、「動かない」ことは、「動く」ことである。

もう少し説明すると、「自分」とか「心」とかいうものを、相手取って、何か「動く」ということがないがゆえに、「大道」としての「あるがまま」が発露し、そのまま「動く」。
すなわち、動かずに、自在に動けるのである。「動く」ことに、一切の手続きは省け、自在な動きは、すべてを「救う・生かす」動き・ハタラキとなる。

この作用を、しっかりと見破ることを、「自覚」あるいは「正覚」といい、そこに至る道を「大道」という。

この「見破る」というところがないと、「手出しをしない」だけのダルマは、目の開かないダルマである。
衆生はみな本来ダルマであったが、みなダルマであることを知らず、目の開いたダルマだけが、みな本来ダルマであったと知る。
「看よ、看よ」とか、「不放逸」とか、「気づきなさい」とか、「精進せよ」とか、「眠ってはいけない」とか、祖師方がいうのは、ダルマに目を描こうとして、いっているのだ。

般若心経・私訳

観自在菩薩が、大いなる悟りの行を行っていたとき、五蘊(肉体、感覚、思考、意思、認識の世界──自分が「ある」という思いの元)は、みな空(実体がない)と徹見せられ、一切の苦しみ災いを乗り越えられた。

サーリープッタに説いて曰く、「あるものがない、ないものがある。あるということはないということであり、ないということはあるということである。肉体は実体がなく、実体のないものが肉体である。感覚は実体がなく、実体のないものが感覚である。思考、意思、認識世界も、同様である。」

また説いて曰く、「この世のすべての現象は、実体がなく、生じもしないし、滅しもしない。汚れてもいないし、清らかでもない。増えもしないし、減りもしない。これは、空相(実体がないという相)において、肉体、感覚、思考、意思、認識世界のいずれもがないからである。

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、思いもない。
見られる像もなく、音もなく、匂いもなく、味もなく、触覚もなく、思いの対象となるものもない。
見える世界、音の世界、匂いの世界、味の世界、触覚の世界、思いの対象となる世界もない。

(釈迦の説いた)無明もないし、無明が尽きるということもなく、以下、行・識・名色・六処・触・受・渇愛・執着・有・生・老死(十二因縁)のいずれもがないし、いずれもが尽きるということもない。
苦・集(苦の原因)・滅(苦の滅)・道(修行法)(=釈迦の教えの中心とされる四つの真理)もない。
悟りもなく、悟りを得るということもない。何かを得るということがないがゆえに。」

菩薩(修行者)は、この大いなる悟りの智慧によって、心に遮るものはなく、遮るものがないがゆえに、恐怖もなく、一切の転倒した夢想を離れ、涅槃の境地に達する。

三世(過去・現在・未来)の諸仏は、この大いなる悟りの智慧によって、阿耨多羅三藐三菩提(この上もない悟りの境涯)を得ておられる。

それゆえに、この大いなる悟りの智慧が、大神力のあり、この上なく明らかであり、これより優れたものがなく、これと等しいものもない、<ことば>として現われ、一切の苦しみを除くことができる、と信頼せよ。これは全き真実であり、絵空事ではないのだ。

ゆえに説く、大いなる悟りの智慧の<ことば>を。すなわち説いて曰く、
「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」
(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわかー)
(いった、いった、その先、いった、底抜け、いったぁ、ああ、そうか~)

般若心経 終わり
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kugla

Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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