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決着(信心)とは

何かを信じられるようになったってことじゃない。

何かを信じるということに、もう用がなくなってしまったのだ。


それが信心銘にいう信心不二、不二信心で、

信心に二つはなし、つまり信じるものと信じられるものという主体と客体もなく、信じると信じないという正邪・真偽・選択・分別の作用もない。

信心は一切現象界にあまねく充満し、無所住であり、そのことに証せられてただあるということだ。



仏身は法界に充満し あまねく一切群生の前に現ず 縁に隨い感に赴いて あまねからずということなし

という、ただこのとおりのことである。

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「ワンネス」という分離

「スピリチュアル」が今、静かなブームなのだろうか。

「すべてはひとつ」とか「ワンネス」とかいう教えがある。

のべつまくなし「ピュア」とか、「絶対的な幸福」とか、「すべてに感謝」とか、「すべてが光輝いています」とか、混じりけのなさを強調したがる人がいる。

まあそんな気分になるときもあるだろうさ、ユーフォリア。

それはそれでいいんだけどもね・・・。

しかし、それが常時続くものだと期待・勘違いして、自分いじめをすることになる人も多い。

「ワンネス」を守って、「ワンネス」と「そうでないもの」との二元性・分離の世界を生み出すことになる。

「ワンネス」を守れば、つかめば、保持すれば、所有すれば、「ワンネス病」という病を抱え込むことになる。

「分離」は、本来の「ワンネス」とは逆なのだが、それでいて本人はそれに気づかないということがある。

だから古の賢人はわざわざ「不二」と言った。

そして、「不二」さえも守ることなかれ。

 

こういうことは昔から言われていて、

「味噌の味噌臭いのは、上味噌にあらず」という。

「ピュア、ピュア」言う人が、ピュアか? ちゅう話である。


療法も療法臭さの抜けきったのが上等で、精神療法に、何々療法、何々療法というのはいくらもあるが、それぞれの療法家で熟達した者は、みなどこか似てくるという。

患者も治りきった者は「療法」をも忘れ去った生活者であるが、そこまで言うのは森田療法くらいではないだろうか。

そこが森田の底の抜け切ったところと感じている。

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kugla

Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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