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「地獄は一定すみかぞかし」 ─ 親鸞上人の信心

(念仏への信仰が揺らぎ、ひょっとしたら極楽往生の道が他にあるのではないか、と訪ねて来た人々に問われて)

【前略】

親鸞においては、「ただ念仏して、弥陀にお助けいただくべし」と、よき人(法然上人)の仰せをそのままに、信ずるほかに、何にもないのだ。

念仏は、本当に浄土に生まれるたねなのだろうか?、あるいは地獄に堕ちる業なのであろうか?
…そんなことはまったくもってわしの知るところではない。

この親鸞、たとえ法然上人にだまされておって、念仏して地獄に堕ちたとしても、後悔などは微塵もない。

なぜといって、念仏以外の修行に励めば仏になれたはずの身が、
念仏を申したばかりに地獄に堕ちたというのであれば、「だましておられたのか!」という悔いもあろう。

しかし、どのような修行も効果が及び難いような(わしのような)身であれば、
どう足掻いてみたところで、地獄こそ定まったすみかなんじゃよ。

【中略】

要するに、愚身(わし)の信心というものは、この通りなのだ。

【後略】

<歎異抄 第二章 地獄は一定すみかぞかし・現代訳>


自身を「愚か」と言ってはばからなかった親鸞さん。

「知らざるを知らずとなす、これ知るなり」の徹底が信心ともいえる。


森田正馬は、これを逆に「不可能を可能のごとく思い惑う、これ愚者のこととなり」という。

般若心経の「転倒夢想」というやつである。

ちなみに可能を不可能のごとく思い惑うのも、また愚者である。


そうしてみれば、どうだろう。


神様、私にお与えください。

自分に変えられないものを、受け入れられる落ち着きを。

変えられるものは、変えていく勇気を。

そして2つのものを、見わけられる賢さを。

 (ラインホルド・ニーバー 「平安の祈り」)


この「平安の祈り」も同様の味わいが感じられないだろうか。

変えられないものを変えられないものと知る、変えられるものを変えられると知る、その「賢さ」は、「私」からくるものではない。

「私」のなせることのなさ、「私」の愚かさというものを認めきり、「私」を手放した、神仏の世界からくるものである。


飛べない鳥

悟りを求めるのは、飛んでいる鳥が飛び方を教わりに来るようなものである。

宗教で「あなたはすでに仏である」とか「すでに救われている」とか言うのは、飛んでる鳥に「あなたは飛んでいる」と言っているのだ。

飛んでいる鳥に「あなたは飛んでいる」と言っても、「いいや、私は飛んでいない」と言うのが人間だ。

飛んでいる鳥は確かに、自分が飛んでいるということを知らない(規定しない)。

しかし、知らないがゆえに、問題が起こらない。

人間は知る作用がゆえに、言葉がゆえに、事実そのままを肯えない。


どうすれば知らずにおれない人間が、「飛んでいる」事実に気付けるのか。

それは、一切を知らないものであったときに、知られないままに知れる。

それは知を超えるがゆえに、知で守ることはできないが、またこれほど確かなものもほかにないのである。


休歇なる悟迹を長長出ならしむ

仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己(他己)の身心をして脱落せしむるなり。

悟迹(悟跡)の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

道元 『正法眼蔵』 現成公案の巻 <参考:URL


「仏道をならふといふは、自己をならふなり」

「仏道をならう」といって、何か自分のほかに「仏道」というようなものを想定して求めるものではないよ、あなた自身、自分というものを手付かずにして、そのまんまにしてご覧なさい。その自分というものに、教えられるんだよ、と。


「自己をならふといふは、自己をわするるなり」

その自己を徹底して、自己そのものになったときに、自己を忘れるという、不思議な作用がある。自己によって自己がすりつぶされた消息がある。


「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」

持ち運んでいた自分という荷物が取り払われると、森羅万象、「もの」のほうから、(すべてが迷いなく、完全な存在であったのだと)証せられるということがある。


「万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」

「もの」のほうから、証せられるというのは、自己の身心が脱落するばかりでなく、自と他、内と外の区別なく、すべてを同時に脱落させる作用である。それが悟りである。


「悟迹の休歇なるあり」

悟跡とは、悟りの残りかす。

確かに悟りによって二度と迷わないようになった、それが通身底わかった、という境涯がある。

二度と迷わないというのは、迷うことがあっても、その迷いそのままに教えらえたらいい、余所を求める必要がない、隻手の音声に聞けばいい、虚空が空を打す音に聞けばいい、ということがわかっているから、迷った時に、その迷わない「もと」を知っているから迷わないというところがある。

その分だけ、迷わないと言っても、「おっと、迷ってるぞ」と眺める者がいる。

それを悟りの残りかすと言う。

で、その残りかすが、お休みしている時節がある。残りかすもなしに活動体そのものとして、そうとも知らずに活動している様子がある。


「休歇なる悟迹を長長出ならしむ」

その、残りかすも死に切って活動している様子ほど、愉快痛快、自由自在なものはないじゃないか。


道元禅師はそう示しておられる。


神は愛である 神はすべてである

愛はすべてである すべては愛である。

愛がすべてであるとき、愛は消える。愛と同時に、憎しみが消える。

そうして初めて、本当の意味ですべてが愛であったと気づくだろう。

愛と憎しみを、一度に解決するものが、大いなる愛である。

そこに人間の観念で作られたような愛は存在しない。

そういう意味では、すべてが愛である、とは、愛はない、というふうにも言える。

ブッダは、すべては苦である、と言ったが、指し示す先は、実は同じだ。

仏教はわざわざ全部が苦であると言い、それに対して「現世的な欲を否定するのか、暗くてヤダ」、という人もいる。

どちらの道を歩むのかは、縁によるのだろう。

 

ある美しいものが好きな修行者に、サーリープッタ(ブッダの十大弟子の一人)は、美しいものへの執着がわざわいである、として、死体を観察させたが、その修行者は、よく悟ることができなかった。

そこへブッダがやって来て、その者に美しい蓮の花を観察させた。修行者は昼夜を忘れて花の美しさを観て喜んだ。やがて花が萎れ、枯れた時に修行者は悟ったという。

これを待機説法というのだが、その者の「性」に随い、「性」を尽くし、「性」を明らめる、というところがないと、導くことによって却って迷わせるだけということにもなるだろう。

だから、ブッダは「法を依りどころとし、自らを依りどころとせよ」と言い、「自己を捨てよ」とは言わなかったのだろう。

 

神経症者が恐怖せざるを得ない「性」をして、森田正馬は「生の欲望」と見抜いた。

「恐怖」「嫌悪」も、その「性」においては、「より良くなりたい」という「生の欲望」からきているというのである。

私にとっては、これを「愛」、と言っても胡散臭いし、「生の欲望」と言ってもわかりにくい。

それを「善意」と呼んでみたい。


老主人 「……わしらの世代は、爺さん婆さんから昔の惨状を聞かされて育っとる。そりゃぁ酷いもんだったらしい。それをなんとかしたくて、人は連邦政府を作り、宇宙移民ってやつを始めた。貧乏人だけが無理やり宇宙へ棄てられた、って言うやつもいるが、望んで出ていった連中も大勢いた。地球の自然が元に戻るまで、もう帰らないと覚悟してな。それも、一年戦争でほとんど元の木阿弥になっちまったが……」
ミネバ 「……救われませんね」
老主人 「……まぁしょうがない。すべて善意から始まっていることだ」
ミネバ 「善意?」
老主人 「連邦も移民も、もとは人類を救いたいって善意から始まってる。会社を儲けさせたり、家族の暮らしを良くしたいと願うのと同じで――」
ミネバ 「でもそれは、ともすればエゴと呼ぶべきものになります」
老主人 「そうかも知れんがね……。それを否定してしまったら、この世は闇だよ」

機動戦士ガンダムUC ep.4より


最近、この老主人の「すべて善意から始まっている」という言葉が、心に沁みるのである。

心理学とは?

江戸川乱歩は、明智小五郎をして、かく語らしめたそうだ。

心理学なんてのは、高度な洞察力である直観に恵まれない凡人にも人間というものが分かるように作られたもので、優れた知恵のあるものには全く必要がないのだ、と。

まったくその通りだと思う。

森田正馬に対する森田理論しかり、
ミルトン・エリクソンに対するNLP(神経言語プログラミング)しかり、
釈迦に対する清浄道論しかり。

古来教えとは、月をさす指だが、よくグチャグチャの迷宮を作って却って月の在りかを迷わせてくれたものだ。

♪ ありの~ままの~

「ありのまま」の始末に終えなさよ。

こいつは、甘い言葉で人を迷わせるが、どうだろう。
実のところ、煮ても焼いても食えない。
煮たり焼いたり、どころか、ちょっとでも手を出したら「ありのまま」でなくなってしまうのだから。

しかし、全く手出し無用のダルマでいればいいかというと、それもちがう。


混沌の話を思い出す。

混沌にまみえた智者は言った。
「混沌さん、あなたは素晴らしい」
「しかし、あなたに顔がないというのは、いかにも淋しい」
「あなたの素晴らしさを知る人は少ない」
「そこで、私は、あなたに顔を作ってあげようと思う」

智者は、混沌に目、鼻、耳、口の穴を1日ひとつづつ空けてあげた。

すると、どうだろう。

混沌は、7日目に死んでしまった。


もうひとつ。一休さんの句。

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな

無門和尚も言う。

元はといえば、釈迦がしゃべりすぎたのだ、と。

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Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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