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非・指示的な慈悲の瞑想

「私が幸せでありますように」と素直に念じられない人のための、慈悲の瞑想
私は、幸せでありたいでしょうか、不幸でありたいでしょうか。
私は、慈しみでありたいでしょうか、憎しみでありたいでしょうか。
私は、穏やかでありたいでしょうか、怒りでありたいでしょうか。
私は、つつましくありたいでしょうか、欲深くありたいでしょうか。
私は、満たされた気持ちでいたいでしょうか、満たされない気持ちでいたいでしょうか。
私は、私の悩み苦しみをなんとかしたいでしょうか、したくないでしょうか。
私は、私の頑張りがうまくいってほしいでしょうか、うまくいってほしくないでしょうか。
私は、落ち着いた心でいたいでしょうか、混乱した心でいたいでしょうか。
私は、賢くありたいでしょうか、愚かでありたいでしょうか。
私は、平和を望んでいるでしょうか、争いを望んでいるでしょうか。

心について

物事は心が先行し、心が主であり、心より成る
もし人が汚れた心で話し、行えば、苦しみが彼に従う、牛の足に車輪が続くように

物事は心が先行し、心が主であり、心より成る
もし人が清らかな心で話し、行えば、幸せが彼に従う、影が離れないように
(ダンマパダ 第1章; 1,2)

仏陀は「物事は心が先行し、心が主であり、心より成る」という。
「もし人が清らかな心で話し、行えば、幸せが彼に従う」という。

聞いた人は、幸せになるためには清らかな心が大事であるというふうにとるかもしれない。

しかし、「私の心=マインド」が清らかになると思い込み、それを清らかにしようとすれば、苦しみがそれにつき従うだろう。マインドは、どこをどうやっても、清らかにはならない。

清らかな心とは、清らかな「無心=ノーマインド」のことである。

「心」という言葉は、「マインド」と「ノーマインド」という両側面から見えてしまえる言葉だから、注意しないといけない。
日本語の「こころ」には、もともと「われ」という中心がなかったのだろう。「花の心」「茶の心」など、中心のない、境界のない、本質を指し示すニュアンスがある。
そちらのほうの「心」だ。

またいう、

つかまえにくく、動きが速く、欲するがままにおもむく心を
訓練することは善いことだ、訓練された心は幸福をもたらす

極めて見難く、極めて微妙で、欲するがままにおもむく心を
智慧ある者は守るべきだ、守られた心は幸福をもたらす
(ダンマパダ 第3章; 35,36)

仏陀は「心を訓練する」、「心を守るべきだ」ともいう。

心を訓練する、心を守るとはどういうことか。

まるで自分の心、感情、気分などが自分で鍛錬・コントロールできるかのように思い誤ってはいけない。

心を訓練する、心を守るとは。

マインドをノーマインドに解き放つことだ。

以下は、江戸時代の盤珪永啄禅師の言葉であり、心の訓練のありようを説いている。

「仏心は不生にして一切事が整いまするわいの」

「その不生で整いまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて烏の声、雀の声、それぞれの声を聞こうと思う念を生ぜずにおるに、烏の声、雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くにみな一切事が、不生で整いまする。これが不生の証拠でござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来永劫の活如来でござるわいの。」

烏の声、雀の声が、「わたし」のほうから聞こうと思わなくても、そのまんまに聞こえている様子、その「無心」の様子のまんまに解き放っていくということだ。

心に苦痛が起こったときも、喜びが起こったときも、そのまんまに苦痛し、喜んでいる様子、そのまんまでいること。苦楽超然。

それが、仏陀のいう、「心を訓練する、心を守る」ということだ。

だから、仏陀のいう「訓練」とは、「感覚・心に、何の手も加えない、手を出さない、そのまんまにしておく」という訓練であり、世間一般でいう「なにかを習得する、達成するために何かを得ていく」ような「訓練」とは真逆の方向性を持った「訓練」なのだ。

世間でよくいう「心を大事にする」とは、心に起こっていることを事実そのままとして、大事にみていく、つぶさにみていく、無心でみていく、良い悪いの判断なしにみていく、ならば安楽をもたらすだろうが、「わたしの心」として、それをつかんで離さないで、「私の、私の」を大事にし、肥大化させるならば、苦しみをもたらすだろう。

内と外

「自殺したい」人には、自分の命なら自分の好きなようにできるという傲慢さが隠れている。

自分を卑下することと、傲慢さは、同じコインの表裏にある。


釈尊は言う。
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

(スッタニパータ 第4章 9 より)


「等しい」「優れている」「劣っている」という考え、そのものもないのが、事実に徹底した人のあり様である。


The major segmentation we make is external and internal.
It's a false distinction.
What's external is internal, what's internal is external.

ガンガジ「内なるおしゃべりの止め方」より)


この、「内は外であり、外は内である」ということは、そのようであるとしか言いようがない。

実相においては、内と外という区別は認められない。

我と衆生とが一切、そのものであるから、「私が幸せでありますように」と、「生きとし生けるものが幸せでありますように」が別ではない。

他(外のもの)を傷つけることは、自(内のもの)を傷つけることであり、自を傷つけることは、他を傷つけることである。

そのように実相においてみることによって初めて、傷つけるという不幸が連鎖する生き方から、離れるのである。


ブログ再開宣言

7年半ぶりの更新です。
この期間に、私自身の臨床観は随分変化しました。

まず、“普通の”認知行動療法でどうにもならないパーソナリティ障害の人たちの治療への関心から、弁証法的行動療法(DBT)、マインドフルネスを勉強するようになりました。
次に、マインドフルネスを理解するために手っ取り早いのは、その源流たるヴィパッサナー瞑想への理解であると考え、テーラワーダ仏教・原始仏教へと関心が進みました。
その後、ヴィパッサナー瞑想の実践を続けていましたが、その行き詰まり感から、関心は大乗仏教、禅、森田療法へと移ってきました。
そんななか、 「禅的森田療法」の実践家とも言われる、三聖病院の宇佐晋一先生との出会いを通して、図らずも欧米の心理臨床の最先端と思われている、“第三世代の”認知行動療法、すなわちマインドフルネスをベースにした認知行動療法の新しい流れを、実は約100年も前に日本生まれの森田療法が先取りしていたのだ、ということを肌で感じるようになりました。

これからまた気の向くままに書いてみたいと思います。
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kugla

Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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