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正師

正師から正法を聞き、行うものは幸いである。
正師から邪法を聞き、行うものは苦しむ。

邪師から正法を聞き、行うものは幸いである。
邪師から邪法を聞き、行うものは苦しむ。
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体得とは何か

「体得」について、今去来した言葉を好き勝手に記しておきます。



  1. 誰が体得するのか
  2. いつ体得するのか
  3. どこで体得するのか
  4. 何を体得するのか
  5. 誰と体得するのか
  6. どのように体得するのか
  7. 何が体得を妨げるのか
  8. 体得してどうなるのか
  9. 体得する意味はあるのか
  10. 体得した人のあり方とはどのようなものか
  11. とどのつまり、体得とは何なのか



  1. 誰も体得しない。体得には、「誰」という中心がない。
  2. 今において体得するよりほかにないが、「今」という時間軸も認められない。
  3. この身が覚知できる、一切の現象においてであるから、定まった場所ではない。まさに「どこででも」。
  4. 「何を」と限定できるものではない。体得は、主格・目的格の喪失である。
  5. 体得において自己がないのと同様に他者もない。一切が自己である。
  6. 体得を妨げるものがなければ、「おのずから」「かくのごとし」である。
  7. 「かくあるべし」が体得を妨げる。「かくある事実」が見えないのである。
  8. もとに戻る。「体得」さえも面倒ごとである。
  9. 平和になる。意味を求めて争う必要はない。
  10. その人自身で問題がなく、目の前の人自身で問題がない。
  11. 以上のような言葉遊びは、入り込む余地がない。



言葉は言葉です。
「体得」が先。言葉はあとです。
騙されませんように。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

真理・真実・事実が人を救うか

真理を求める人は、その求めている「真理」を人に伝えて、その素晴らしさを理解してもらおうとする。
それを伝えることが、素晴らしいことだと思っている。

真理に徹した人は、真理を忘れているので、真理を伝えることがない。
それゆえに真理を伝えると言われる。
不立文字、教外別伝、直指人心。

語られた真理は、真理の抜け殻のようだ。

「真理、真実、事実、これが正しい、これが理想のあるべき姿、これが本来の状態、自然な姿、愛、ワンネス、悟り、神、仏、・・・」。
そのような、説明は、現にそうではないとしか、思えない人にとって、何の救いにもならない。
そして、説明をする人も、現に今ここにある様子を、「真実本来のあり方」ではないと思っている。
その点で、救われてはいない。

真理を語るものは、暴力的である。
「真理」と、「そうでないもの」の二つを立て、その一方を排除したいのである。

したがって言う。
「地獄がそのまま極楽である」、「煩悩がそのまま悟りである」、「この苦しみの世がそのまま神仏の世界である」などと。
こちらのほうがまだ人に寄り添った言い方ではある。
しかし理解と体得とはまた別のことである。

もちろん、「語られた真理」に照らして、自分の体験においてその真贋を吟味することはできる。
しかし自分の持っている、「語られた真理」に照らして判断するということは、悲しいかな、グニャグニャに伸び縮みする物差しで、何かを測ろうとするようなものである。

では、お前はどうするのか。
真理によっても真実によっても事実によっても、救われないとすれば、人は何によって救われるというのか、と問われるかもしれない。

それに答えて言う、人は、真理、真実、事実において救われていると。

測る前に、火は熱い、氷は冷たい、とすでに知っているからである。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

般若心経・私訳

観自在菩薩が、大いなる悟りの行を行っていたとき、五蘊(肉体、感覚、思考、意思、認識の世界──自分が「ある」という思いの元)は、みな空(実体がない)と徹見せられ、一切の苦しみ災いを乗り越えられた。

サーリープッタに説いて曰く、「あるものがない、ないものがある。あるということはないということであり、ないということはあるということである。肉体は実体がなく、実体のないものが肉体である。感覚は実体がなく、実体のないものが感覚である。思考、意思、認識世界も、同様である。」

また説いて曰く、「この世のすべての現象は、実体がなく、生じもしないし、滅しもしない。汚れてもいないし、清らかでもない。増えもしないし、減りもしない。これは、空相(実体がないという相)において、肉体、感覚、思考、意思、認識世界のいずれもがないからである。

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、思いもない。
見られる像もなく、音もなく、匂いもなく、味もなく、触覚もなく、思いの対象となるものもない。
見える世界、音の世界、匂いの世界、味の世界、触覚の世界、思いの対象となる世界もない。

(釈迦の説いた)無明もないし、無明が尽きるということもなく、以下、行・識・名色・六処・触・受・渇愛・執着・有・生・老死(十二因縁)のいずれもがないし、いずれもが尽きるということもない。
苦・集(苦の原因)・滅(苦の滅)・道(修行法)(=釈迦の教えの中心とされる四つの真理)もない。
悟りもなく、悟りを得るということもない。何かを得るということがないがゆえに。」

菩薩(修行者)は、この大いなる悟りの智慧によって、心に遮るものはなく、遮るものがないがゆえに、恐怖もなく、一切の転倒した夢想を離れ、涅槃の境地に達する。

三世(過去・現在・未来)の諸仏は、この大いなる悟りの智慧によって、阿耨多羅三藐三菩提(この上もない悟りの境涯)を得ておられる。

それゆえに、この大いなる悟りの智慧が、大神力のあり、この上なく明らかであり、これより優れたものがなく、これと等しいものもない、<ことば>として現われ、一切の苦しみを除くことができる、と信頼せよ。これは全き真実であり、絵空事ではないのだ。

ゆえに説く、大いなる悟りの智慧の<ことば>を。すなわち説いて曰く、
「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」
(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじーそわかー)
(いった、いった、その先、いった、底抜け、いったぁ、ああ、そうか~)

般若心経 終わり

迷わない

「迷わない」ということは、迷わないことがない、ということである、それゆえに、「迷わない」と説かれるのだ。

以下、金剛般若経より。

不生~おこらない
スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらない。
また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないものという思い》もおこらない。
また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらない。

実相は非相なり~「是実相者則是非相」
世尊よ、もしまた人有り、この経を聞くことを得て、信心清浄ならばすなわち実相を生ぜん。まさに知るべし、この人、第一希有の功徳を成就せんことを。 世尊よ、これ、実相はすなわち、これ、非相なればなり。この故に如来は説いて実相と名づけたもう。

如来が心を説くのは、あらゆる心を非心となすが故である。
そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来は悉く知る。何を以ての故に。如来は、もろもろの心を説きて、皆非心となせばなり。これを名づけて心となす。ゆえはいかに。須菩提よ、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり。
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kugla

Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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