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信心銘 (1) 「至道無難 唯嫌揀擇」

(原文)

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白
毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆
違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜
圓同大虚 無欠無餘 良由取捨 所以不如


(読み下し)

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(私訳)

究極の道に、難しいことは何もない。ただえり好みを嫌うだけだ。
ただ「これが良い」とか「これは嫌だ」ということがなければ、(大道は)カラッとして明らかだ。
そこに毛ほども「差」(分別)を生じれば、たちまち天と地ほどはるか隔たってしまう。
現前(悟り)を得ようとするなら、「これに従う」とか「これは駄目だ」ということもあってはならない。
「いい」だの「悪い」だのと相争う、これを心の病という。
玄旨(究極のところ)を知らなければ、徒に心の葛藤を鎮めようと苦心するばかりだ。
(玄旨の)完全であることは、全くの空虚と同じで、欠けることろもなければ余るところもない。
(そこから外れて)取捨選択をするばっかりに、「如(そのまま)」になれないのだ。


(コメント)

今回から、全10回に分けて、三祖・僧璨(そうさん)大師(鑑智禅師とも呼ばれます)の信心銘を取り上げます。
三聖病院では、診察室に入ると右上の壁にこの信心銘の全文が掲げてありました。
「至道無難 唯嫌揀擇」、「絶言絶慮 無處不通」、「言語道断 非去来今」などその一部は、講話でとり上げられたり、院内の彫刻に刻まれたりしていました。
是非、全文通して味わっていただき、禅が中国で本格的に興隆する以前の時代、三祖が率直に表現された精髄に触れていただきたく思い、わが身をも顧みず講釈を垂れてみたいと思います。

別の解説も見てみたいという方のために、OSHOによる講話をご紹介しておきます。
書籍は現在絶版ですが、内容はこちらのブログから読めます。
また、井上義衍老師による信心銘の提唱も書籍化されており、お勧めですが、こちらも現在一般の書店では手に入りにくいようです。
川上雪担老師による信心銘提唱が、こちらから見られるようです。
二祖(慧可)と三祖(僧璨)の、まみえた様子はこちら
三祖と四祖(道信)の、まみえた様子はこちら

さて、内容に入ります。

「道(タオ)」とは、中国では究極のもの、根源的な実在、事実・真実に生きるさま、などを表しており、老子によれば「名付けることのできないものである」ともいわれるものです。
そのようなあり方は、いかにも難しいように思われがちですが、「何も難しいことはない」、と言われております。
ただ、「揀擇=選り好み」をしないだけだ、と。
「これは良い」、「これは駄目」ということだけがなければ、ハッキリしてるじゃあないか、というわけです。

「毛ほども差があれば」、これはわずかでも、そのままを肯えない気持ちが生じれば、そのわずかな違いで天地の差を生み出してしまう、と言われます。
「ものとひとつになる」「ものとひとつである」という事実徹底のあり方からすれば、いくらそれに近いような状態であろうと、わずかでも「差」、「隔て」、があれば、天地の隔たりなのです。

「うけてまつ手をすれすれにちる紅葉」という、虚白禅師の句がありますが、「うけてまつ」ほうには、いくら待とうと、どれだけ「良い」待ち方をしようと、紅葉は手に入りません。
いくらすれすれであろうと、決して、「紅葉」は、わがものにならないのです。
手に入ると手に入らないでは、天地の隔たりがあるんじゃないでしょうか。

また、「夢の内の有無は有無ともに無なり、迷の内の是非は是非ともに非なり」と言われるように、徹してみるまでは、それが天地の隔たりとは、思えないかもしれません。

その「徹する」ということを、身をもって知りたいと思うならば、「順逆を存することなかれ」、この方法、あの方法、こちらは正しく、こちらは誤り、これには従うが、これには従わない、など、あってはならない、と言われます。

一切が無条件なのです。

「これは良い」、「これは悪い」、といって相争う、これは心の病だよと。これは精神疾患だけのことを言っているのではありません。
そんなちんけなもんじゃありません。私もあなたも、人類皆の心を言っております。

「玄旨」、大事なところを識らなければ、「より良い心の状態」を目指して、徒労に徒労を重ねるだけだと。

「一波をもって一波を消さんと欲す、千波万漂、交々起こる」とも言います。
心を鎮めようとするまさにその努力が、心を千々に乱れさせます。

そのような努力が、起こらない様子を「円(まどか)」と言うております。

「円」とは、完全である、ということです。完全であり、過不足がない。
究極のものが、完全であるさまは、無であると同じで、不十分で何かを足さないといけないようなこともなければ、邪魔にして何かを捨てなければならないようなこともない。
実に、良いものを残そうとしたり、いらないものを排除しようとする、そのことだけが脱線であり、あるがまま・そのままになれない所以なのだ、と言われています。

「苦痛を苦痛し 喜悦を喜悦す これを苦楽超然といふ」(森田正馬)。
「苦痛を苦痛す」。これを「円」と言うております。
「喜悦を喜悦す」。これを「円」と言うております。

ここまで、「唯嫌揀擇」というただ一つのことを、言葉を変えて色々に表現されています。

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信心銘 (2) 「絶言絶慮 無処不通」

(原文)

莫逐有縁 勿住空忍 一種平懷 泯然自盡
止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種
一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空
多言多慮 轉不相應 絶言絶慮 無處不通


(読み下し)

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(私訳)

「もの」を認めて、その因縁を追ってはいけない。
「もの」などないといって、「空=ない」を認めたところに住してもいけない。
一種(ものとひとつ)のそのままの様子でおれば、「もの」も「空」も、自ずから尽きてしまう。
動を止めて、止に落ち着こうとすれば、止はさらにいよいよ動いてしまう。
動でも止でも、ただどちらか一方に滞ってしまっては、どうして一種ということが知れようか。
一種に通じなければ、両所に本来のハタラキを失ってしまう。
有を捨てようとすれば有に没し、空に従おうとすれば空に背く。
言葉を用い、あれこれと考えで何とかしようとすれば、まったくもってうまくいかない。
言葉を使わず、思慮分別をしなければ、通じ(本来のハタラキが躍動し)ない場所はない。


(コメント)

前段では、「玄旨を識る」ということが出てまいりました。
修行者にとったら、僧サン禅師からの問題提起であります。
はたして、「玄旨を識る」とはどういうことなのか?
今回のところでは、「玄旨」の内容が、懇切丁寧に示されています。

はじめに、「有縁を逐うことなかれ」とあります。
「縁」。因縁、因果関係、成立条件、などと言うてもよいですが、端的に表現すれば、釈尊が「これがあるとき、あれがある。これがないとき、あれがない。これが生じるとき、あれが生じる。これが滅するとき、あれが滅する」と言われるのが、「縁」であります。
物事の因果関係から、法則性を見出し、生活を向上させてきた、という人の営みがあるわけです。
また仏教でも、「縁起の法」と言いまして、苦の起こる因果を見究め、苦を滅するということが、とても重要な教えとして広く認められておるわけです。
ひとまずそれはそれでよろしいとしましても、「自己本来の面目を知る」という修行の態度からしますと、「こうであるから、こうである」という法則をみつけだして、自分の心にその解決法を応用する、というような態度では駄目なんですよ、と言われているんですね。
縁は縁として、見えてくることもあるかもしれないけれど、「逐うてはならん」と。見えたら、見えたまま。

それで、「空忍に住することなかれ」。
「空」という、「ものごとに実体というものはないんだ」という教えをですね、「そうなんだ」というような考えで持っておってもいけないんだ、というわけですね。
「空なり、空なり」と言うたって、棒でしたたか打ちつけられたら、痛いでしょう。
それくらい、「そのもの」に触れてる様子は、しっかりしてるのですから、「痛み」なら「痛み」の、その瞬間瞬間、ハッキリしたものと「ひとつ」の様子ですわね、ここで「一種」ということですが。
何も特別なことはない、平生の様子ですわね、そのまんまでおったら、「泯然としておのずから尽きる」と。そのような、見解で作ったようなものは、コロッと、跡形もなくなくなってしまうと、まあこういうことが、ハッキリしてもらいたいんですね。

「動を止めて止に帰すれば、止はさらにいよいよ動ず」。
不安な心を安心に変え、安心ばかりにしようとすれば、不安がさらに不安を呼び起こす。
前段で「いたずらに念静を労す」と言われていたところですね。

仏道が瞑想、あるいは坐禅という大問題を打ち立ててしまったばっかりに、もう当時から、心の動きを止めようとして討ち死にする人が多かったんでしょう。
そりゃ、坐禅というものがちっともわかっておらんのです。
心の動きを止めて、静寂に至る、その静寂が本質だ、などと言うたら、その口をひねりあげてやるぞ、動だの静だの、両端の世界にとどまっていては、どうしてありのままを知れようか、と言われます。

あるがままに通じなければ、両端のうま味もハタラキも失ってしまう。
「有」が「有」としての役に立たず、「空」が「空」としての役に立たず。結果、空振り、失敗、不幸、苦しみの自家発電、自己連鎖です。
「有」、ものの実体の世界ですね、あるようにある、見える、聞こえる、感じる、考える、そういった現れておるものを、捨てよう、捨てよう、避けよう、避けようとしたら、かえってその、ものの世界、因果の世界に埋没してしまう。
かといって、「ものの実体は空なり」と言うてですね、「感覚の世界、感情の世界、思考の世界、そんなもの、実体はないんだ」と言って、そういう考え方に従っておるようでは、かえって「空」に背くと。

要は、考え方、言葉で作られた概念の世界、考え方での取り扱い、をしている限りは、どんどん今の事実のありようからは遠ざかっていくんですね。
そういった、言葉で作られた概念、考え方での取り扱い、を絶したところに、すべてのものを生かすハタラキが現れてくる、釈尊、達磨大師、それら祖師方のありようにも通じ、全宇宙にも通ずるということがあるんです。

「多言多慮 転た相応せず、絶言絶慮 無処不通」。
どうぞこの言葉の通り、味わってみてください。

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信心銘 (3) 「返照」 ~万法に照らされる~

(原文)

歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空
前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見
二見不住 慎勿追尋 纔有是非 紛然失心


(読み下し)

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(私訳)

「根=もとの様子」に帰れば玄旨(肝心なところ)を得、(対象を)認識して分かったことに従えば大事なところを失う。
「根=もとの様子」に少しでも教わるならば、空だと分かったつもりになっていたものなど超越してしまう。
わかったつもりの「空」が、あれやこれや変化するのは、皆妄見による。
なにが真実なのかを求めることさえ用いず、ただあらゆる見解を離れなさい。
是非・善悪・有無などの二見に住せず、慎んで、見解でこねくり回すことを止めなさい。
わずかでも「是非=よしあし」があれば、紛然として心(大事な真実)は失われてしまう。


(コメント)

前段で、「絶言絶慮」という修養の態度が示されました。
言葉じゃないんです。考え方じゃないんです。それを絶したところです。それでおのずと見えてくるものがあるでしょうが、見えたものをつかんで、縛られるなよ、ということが、今回のところのひとつの趣旨と言えるんじゃないかと思います。

はじめに、「根に帰すれば旨を得」とあります。「旨」は、第1回で出てきたところの「玄旨」と同じと解して良いでしょう。
「根に帰する」とは、それほど大事なところですが、どんなことを言っているんでしょうか。

仏教で「六根」といえば、「眼耳鼻舌身意」を指しますので、この、6つの感覚作用、私らの認識のもとになっている作用ですね、目なら目、耳なら耳、鼻なら鼻、そういったものに映ってくる様子、これに「帰する」、というのが、まあひとつの解釈。

もうひとつは、「根」を、仏教用語ではなく、一般的な用法として、「おおもとの事実」の意ととる解釈。
信心銘全体が、専門的な用語を極力使わず平易な言葉で書かれているので、むしろこちらが妥当かもしれません。
前段にいう「絶言絶慮」──ことばや思慮分別を離れた、それ以前の──、手のつかない「もとの」様子、ですね、まあこちらも感覚作用に限定しない、というだけで、どちらにしろ、言葉や思慮の手がつく前の、「もと」のいちいちの様子ですわね。
見えてくるものでも、音でも、苦しい感覚でも、いいんで、そのまんまの感覚に、赤ちゃんのように、何も手が付かず、そのまんまにしている、そういった様子でおった時に、玄旨が得られますよ、と。

照に随えば宗を失す」。
一方で、何かこっちから見たもの、認識したものですね、これを「照」と言うておりますが、それに従えば、「宗」、大事なものが、いっぺんに失われてしまうと。
見えたものが、あーだとかこーだとかね、なんでも意味をつけたがる。「これが悟りだ」とか「これが究極の苦しみからの解決策だ」とかいうことも、「わかったこと」、「つかんだこと」、全部「照」です。そのために、全部「わや」です。

須臾も返照すれば」。こっちのほうから「照」、認識・観測するんじゃないんです。
「根」、今の自分自身が触れてる感覚、事実のほうから、仏祖本来の面目が明らかになるんです。

「須臾」、ちょっとでも、そういうところに、思いがけずにふっと入りますと、「前空に勝却す」。
「前空」というのは、空に証せられる以前の「空」。前段で「空に随えば空に背く」と言われておりました、なにか「こういうもんだろう」として、得た「空」、つかんだ「空」を言うておりますね、そういった「わかった空」を乗り越えられる、ということです。

このあたりに関連する言葉を、道元禅師のことばからみてみましょう。

自己を運びて万法を修証するを迷となす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
(正法眼蔵 ~現成公按の巻~)


「自己を運びて万法を修証する」が「照」、「万法すすみて自己を修証する」が「返照」、ということです。
普勧坐禅儀にも、「須らく回光返照の退歩を学すべし」とありますね。

万法に照らされてはっきりする、
ここでいえば、「根に帰する」ことではっきりする。
わかったことに従ったんじゃないんです。
それ以前の、あらゆるものに触れている「事実」に帰ることよって初めて、「旨」がはっきりしたんです。
「返照」、少しでもその「事実」の、「ほうから」照らされれば、頭でわかっておった「空」なんてものは、「ナァ~んだ、絵に描いた餅だったんじゃないか。いくら眺めておったって、腹がふくれる道理がないわ」とはっきりするんです。
それを道元禅師は「万法に証される」と言うたんです。

釈尊の教えは、頭で理解してわかるもんじゃないんです。
この身で起こる、痛み、音、見えたもの、指一本の動き…。そういう、ものをどうこう考える、見解以前の「事実」、そのものに触れてはっきりするんです。

それで、「前空の転変は 皆妄見による」。そのはっきりしたところで初めて、これまで「これこそ正しい」と思っておった、「この人、この教えこそ自分を救ってくれる」と頼っておった、「わかった空」・「本物と思い込んでいた空」が、あれやこれやとその時その時で移ろい変わっていったのは、みな「妄見」であったからなのか、と腑に落ちるのです。
それで、もう他のものに尋ねていく、求めていくことに、徹底、用がなくなるのです。真の自由人です。

ですから、僧サン禅師は、「真を求むることを用いざれ」。真実を求める、何がもっともらしいか、何が正しいか、そんなことを求めることはやめなさい。
ただ須らく見を息むべし」、ただ、一切の見解を持つことをやめなさい、と、老婆心から言われております。

二見に住せず」。より物事を、はっきりさせよう、確かなものにしよう、しっかりしたものにしよう、として見解、考え方で、真実らしいもの、正解らしいもの、確かなもの、ぶれないもの、聖なるもの、などを、なにか「実体」としてあるかのように想定するようなところに「住せず」、
慎んで追尋することなかれ」。そのようなものを追いかける、憶測する、詮索する、そのようなことも、慎んで、やめなさいと。

わずかに是非あれば」。比較ですね、こっちの方がよいだろう、とか、悪いだろう、とか、ましだろう、とか。
そんな「善し悪しの判断」がちらっとでもあれば、
紛然として心を失す」。
ここでいう「心」とは、私たちが個々に持っていると思っている「こころ」をいっているのではなく、「道」とか「玄旨」とか「宗」とかと同じで、「大事なこと」「本質」といった意味合いですね。仏教的に言ったら「仏心」のほうです。
それが「紛然として」、ごちゃごちゃ、ぐちゃぐちゃになって失われてしまう、と。

私がこのブログで以前にも書きましたけれど、荘子の「混沌(渾沌)に穴を穿つ」話を思い出します。

南海に儵(しゅく)という帝王がおり、北海には忽(こつ)という帝王がいて、中央に混沌という帝王がいた。
ある時儵(しゅく)と忽(こつ)が混沌の地で会って、混沌に大変歓待された。
そこで彼らは混沌の徳に報いんとて、お返し案を練った。
「そうだ、人間には眼・耳・口・鼻という七つの竅(穴)がある。
それで人間は視たり、聴いたり、食べたり、呼吸することができるのだ。
ところが混沌にはそれがない。
ひとつ、穴をあけてあげたらどうだろう」。
そこで二人は、毎日一つずつ、混沌の身体に穴をあけていった。
が、七日目になると混沌は死んでしまった。
(荘子・応帝王篇第七)


混沌には穴がない、六根がない、と喩えられております。
これはまさに「無眼耳鼻舌身意」の即今(儵も忽も、ほんの一瞬という意味があります)で、有と無、是と非などあらゆる二極が、出会い、超克される様子を象徴しています。
そして、それを大切にするなら、わざわざ穴をあけてはいけません。

混沌を前にして、「知らなさ、わからなさ、きめられなさ」に慎んでおれるか、ということが問われております。

次回は、この荘子の話でいえば「混沌に会う」の様子が、示されてまいります。

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信心銘 (4) 「一心生ぜざる」時節 ~心身脱落、脱落心身の「両段を知る」~

(原文)

二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎
無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沈
境由能境 能由境能 欲知兩段 元是一空
一空同兩 齊含萬象 不見精粗 寧有偏黨


(読み下し)

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(注)
万法: 「法」は、サンスクリット語の「ダルマ」、あるいはパーリ語の「ダンマ」の漢訳。
「ダルマ」には、「真実」「教え」「法則」など多様な意味がある。
ここでいう「法」とは、「諸法無我」の「法」と同義で、一切の「現象」の意。


(私訳)

あらゆる二項対立のものは、一つのものを認めることによって生じる。
だから一つにもまた、しがみついてはいけない。
一心が生じなければ、一切の世界に問題がない。
問題がなければ、世界もなく、生じもしなければ、心もない(「生じる」も「心」も、もともと認識できない)。
「(感覚の)主体」は、客体=対象物(が滅する)に従って滅し、
対象は、主体(の脱落)とともに脱落する。
対象は、主体によって、対象であり、
主体は、対象によって、主体である。
両方を一度に知りたいと思ったところで、もともとこれというのは(「ふたつ」のない)一空。
一空は、(同時に)あらゆる二項対立と同じで、一切すべての現象を一様に含む。
(それは)大雑把だの微細だのといった区別も見えぬ、ましてやどうして主義として主張したり、組織化できるようなことがあろうか。


(コメント)

さあ、いよいよ何を言っているか、わからなくなってくるところかもしれません。
前段で「根に帰する」ということが出てまいりました。
六感を、絶言絶慮、言葉も思慮もつかないまんま、「もとの」様子のまんまでおった時、というのがどのような様子なのか。そういうこととして、今回のところは、ご覧になられてもよいかもしれません。

それは、「即今」、「たった今」、この瞬間瞬間の様子でありますので、他人事ではありません。
ご自身のまさに今ここの様子であり、同時に一時もそこから離れていたことさえない、手当たりしだいの状況である、ということを(蛇足ながらも)申し添えておきます。

さて本文です。

二は一によって有り、一もまた守ることなかれ」。

「ひとつ」と言うても、「ひとつ」を規定すれば、「それ以外のもの」が自動的に規定され、「ふたつ」になるんですね。
何と言いますか、言葉というものは、一つを規定しようとすると、その一つとそれ以外のものとを結局「分ける」作業ですから、必ず世界を「一つ」と、「それ以外」の、「ふたつ」に分離させてしまうんですね。
「私」=「自」を規定しようとしたら、「私でないもの」=「他」が、自動的に規定されてしまう。
「よいもの」、「事実」、「真実」、「本物」、「本来のあり方」・・・。なんと言うても、「そうでないもの」、「そうでない状態」が規定されてしまう。
ですから、「二見を生じない」「是非をつけない」ということは、「ひとつ」とさえ、言うてはいかんぞ、ということに、等しいわけであります。

で、「一心生ぜざれば、万法に咎無し」。

その「ひとつ」という意識さえも起こらない様子というのは、「万法」、一切の現象に、「咎」、問題、障りになることが無いのだ、というお示しです。

一発悟ったら、病気も治るんじゃないか、人間関係も改善するんじゃないか、何事にも動じなくなるんじゃないか、物事がいちいちうまくいくんじゃないか・・・。
我々には、どこか期待があるんですね。
僧サン大師ご自身も、私の業病の「業」を消してくださいと、二祖に頼んだぐらいなんですね。
でも「悟り」、「あるがまま」、「空」の功徳(効用)は、そんなことじゃないんです。
999人も人を殺したアングリマーラ尊者が、悟ったら、殺人がチャラになったかというたら、そうではないんです。
やっぱり町に托鉢に行くと、石を投げられるんです。石を投げられるくらいで済まないこともあったかもしれません。
でも、石を投げられることに、もう「咎」はないんです。
病気にもなる、人間関係でトラブルにもなる、不安にもなる、うまくいかないこともある・・・。
でも、どんなことがあっても、「咎」が無い。
こんなにありがたいことが、あるんでしょうか。

維摩経」では、最初のところで、この不浄の世界が、そのまま清浄な仏国土である、と示されます。
「万法に咎無し」とは、そういうことじゃないんでしょうか。

咎無ければ法無し、不生不心」。

「咎」が無い、というのは、もう、「悟り」、「あるがまま」、「空」とかいう、何らかの「教え」さえないよ、と。
とりつく島が無いようですが、とりつく島が、いらなくなった様子のお示しです。
直前に、「一心生ぜざれば」と言うて、まるで「不生」が、条件のように思うかもしれませんが、「不生」であり、「不心」であるのがもとの様子です。

「不生」といえば、般若心経で、「不生不滅」とありますね。盤珪禅師は、「不生禅」で有名です。
(このブログでも以前にこちらで触れたことがあります。)

仏心は不生にして一切事が整いまするわいの

「不生」にして、一切事が整い、一切事が整って「不生」なり。

その時節、「一心」、あるいは「心」なるものも、認識できない。

能は境に従って滅し、境は能を逐うて沈す」とは、般若心経にあるこの部分と言うてることはいっしょですね。

無眼鼻耳舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界

「能」とは、眼・鼻・耳・舌・身・意の、見る・かぐ・聞く・味わう・触れる(触覚・痛覚)・思う、という(認識)作用のことですね。
「境」とは、その作用によって認識される対象をいいまして、色・声・香・味・触・法、すなわち、見えるもの・音・におい・味、触感を生じさせるもの・思いの対象、のことであります。
「能」は主客の「主」、「境」は主客の「客」と言い換えたらわかりやすいかもしれません。

「不生」の時節、見えているものが滅するに従って、眼が滅す、あるいは、眼が脱落するのを逐うて、見えているものが脱落する、ということが、あるんです。
道元禅師が、如浄禅師に、「心身脱落しました」と言うた、それです。
もちろん、居眠りしとったわけではないですよ。

それで、滅したことが、なんでわかるかというと、「境は能によって境たり、能は境によって能たり」。
眼=見るという作用が生じてくることによって、見えるものが生じてくる、あるいは、ものによって、見るという認識作用が生じてくる。
これを、如浄禅師は、道元禅師に、「おまえ、『心身脱落しました』と言うが、それをわしに言いに来た、「お前」というのがおるのかね?」と、「脱落心身」、「脱落が心身したんじゃないか」と詰め寄ったわけなんです。

それで、道元禅師も「・・・確かにそうじゃ」。「両段を知」ったとみえるわけですが、これをですね、一応「知る」と言うてはおるものの、知ろうと思ってもですね、「元これ一空」、知れたもんじゃないんです。

ですから、道元禅師も、「空手環郷」。中国から、「何かを知って」「何かを得て」帰ってきた、とは言えないわけです。
それで、何がわかったんだ、と聞かれたら、「眼横鼻直」。ただ目は横に、鼻は縦についている、ということが、はっきりしたんだ、それくらい、当たり前のことをそのまんまに認められるようになったんだ、と。そう言われるんですね。

一空両に同じく」。
それで、僧サン大師は、この「両段」はもと「一空」である、と言うたが、「一空」があると思うなよ、それはそのまんま「両段」と同じだぞ、とさらに念を押されるわけです。
そして、「空」は「斉しく万象を含む」、一切のものを何の分け隔てもなく含んでおる、と。
一切というたら、全宇宙、全方位、全空間、あらゆる人の思念・想像の及ぶ世界、苦や楽の感受、すべての生き物の感受する世界、人智をはるかに超えた世界、過去・現在・未来の三世、そういったものも、全部です。
例外なしです。まるごといっぺんです。

精粗を見ず」。
「柳は緑、花は紅」と言いますが、それでまったくの「咎無し」、平和の「一空」でありますから、そこに、今まで気にかかっておった、「見えたもの」だの、「見る作用」だの「眼」だのという、そんな細かいの荒いの、詳しいの大雑把だの、偏りはなく、
いずくんぞ偏党あらんや」。
さらに何かの「見解」「思想」「主義主張」、「組織」「党派」、などの偏り・隔てさえも、生じる余地などあろうか、と。

一切の、「隔て」がない、この、事実の世界、「柳は緑、花は紅」をですね、あるいは「眼横鼻直」でもいいですわね、もう、「看よ、看よ」と言われています。

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信心銘 (5) 「放てば自然(じねん)」

(原文)

大道體寬 無難無易 小見狐疑 轉急轉遲
執之失度 必入邪路 放之自然 體無去住
任性合道 逍遙絶惱 繫念乖真 昏沈不好
不好勞神 何用疏親


(読み下し)

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(私訳)

大いなる道は、実にくつろいだものとしてあり、難しいということはなく、易しいということもない。
しかし視野の狭い者は、これを疑い怪しむ。急げば急ぐほどに、ますますその歩みは遅くなる。
これに執着すれば節度を失い、必ず邪路(=不幸な道)に入ってしまう。
むしろこれを掴まず、手放してしまえば、おのずから、あるがままのものが現れてくる。
大いなる道は、無くなってしまうものでも、特定のすがたをとどめるようなものでもない。
あなたのあるがままに、そのままうち任せれば、きちんと「道」に適う。
目的地もなく、ぶらぶら歩いていながら、あらゆる苦悩が絶たれる。
思いを何か特定の(良い)ものにとどめようとすることは、真実のあり方に背くし、
(何にもとらわれないようにと)ボーッとしているだけならば、(ありのままをそのまま見ることを)嫌がっているのだ。
(ボーッとして楽をしているように思うかもしれないが、それは)嫌がっているぶん、神経は疲弊してしまう。
どうして、そのように特定のあり方にとどまろうとしてみたり、嫌がったりするようなことをするのか。


(コメント)

また今回は、前回までの「境地」の説明から、やや「修行法」寄りのお話に戻ります。
「道」に適うあり方、というものが示されてまいります。

前段では、「空」が、一切合財を、等しく、分け隔てなく含んでいる、どこに分け隔てして守るべきものがあろうか、というところで終わりました。

大道体寛にして」。
「空」という「大道」は、それだけ隔ての無い拡がりのあるもので、また寛いだ、と言うてもいいような、ゆったりさ、鷹揚さ、といった様子を特徴として備えておるわけです。
難無く易無し」。
それは、一切の対立概念を超えてあまねくいきわたっておるわけです。
そこには、「難」も「易」も出る幕なしです。
仏道は「中道」と言われます。楽でもない、苦でもない。

この信心銘の一番初めの出だしが「至道無難」でしたね。
「無難」と言われたら、「じゃあ、易しいのかしらん?」と、見解でもってみてしまうのが普通です。
ですから、そう言いながら、ここでは、「無難無易」、難しくもないし、易しくもない、と。
「易」にも捕まるなよ、と言われます。

「大道」、まあ「至道」と同じことですね、は、隔てなくいきわたっておりまして、難しいの易しいの、と言えないくらい、「丸出し」になっておるともいえるし、「難しい」とも「易しい」とも、どのようにも決めてかかることのできない、何かに属するというように言えるものでもないのです。

しかるに、「小見は狐疑す」。
この「丸出し」のものを、「人」は、狭い見解に押し込めて、そのまんまに信じられないんですね、
用心深く、疑り、納得できないんです。
それで、「転た急なれば転た遅し」。
自分の見解で、「こっちのほうが早く解決が付くだろう」「何とか解決を付けなければ!」と、急ぎ、焦るんですね。
釈尊も、出家をされて6年間、難行苦行に打ち込んだのは、「何の問題も起こさないような人になろう」「愚かなことに引っかからないような人になろう」として、煩悩、欲とか怒りとかをなくそう、なくそうという方向で、それこそ命がけで解決しようとなさったんですね。
ところが、急げば急ぐほどに、「道」からは遠ざかり、歩みは遅くなってしまっていたんですね。

之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る」。
これに執着すれば歯止めが利かなくなって、必ず邪路入ってしまう。
「善」なら「善」、「真実」なら「真実」、「空」なら「空」、「悟り」なら「悟り」、そういったもっともらしいものでも。
それに執着すれば、必ずわき道にそれてしまうのです。

では、どのようにこの「大道」を歩めば良いのか?

之を放てば自然なり」。
放つ。
六祖壇経に「放下著」という、有名な禅語があります。
「捨て去ってしまえ」、「手放してしまえ」という意味ですね。
これが「一物不将来の時、如何?」(「全部捨て去って、何にも残っておりませんが、(この私の境涯は)どうですか?」)と聞かれた時の、六祖の答えだ、というのが面白いですね。
「一物不将来」というものを大そうに持っとるんじゃないか、とやるわけです。

これを全部手放してしまえば、自然(じねん)であると。
おのずからしからしむる、おのずからそのようである、「道」そのものである、とうことが、ハッキリとしてくるんです。

お釈迦様も、菩提樹の下で、正覚を得られた時は、もう「何かになろう」ということを、全部捨てられたんです。
あらゆる苦行をやり尽しても、どうにも解決がつかなかった。
煩悩という激流を、渡ろうとされました。渡って、涅槃に入ることを目指されて、大変な苦労をされた。
それでもう全部、「放って」しまった時に、「自然(じねん)」ということに気づかれたんです。

「放てば自然」。なぜと言うと、
体に去住無し」。
この実体、実相というものは、ないでもない、あるでもない。
「去」=しっかりつかんでおかないと無くなってしまうとか、「住」=なにかひとつのはっきりした姿を描ける、といったものでは、ないからであります。

たとえば、目の前のお茶を飲むのに、茶に触れれば茶の味がはっきりする、その味覚というものは、触れればいきなり現れる。どのように考えたり想像したとしても、考えより実物に触れる方が確実でしょう。
その「触れる」ということの確実性が、なにかつかまないとなくなってしまうようなものではないではありませんか。見ること、感じること、思うこと、全てにおいて、もう向かえばいきなりある、絶対無くなりようのない、迷いようのない世界が、「即」、インスタントに現前しているのです。
「放てば」、すぐそこにあるのに、気づかなくて、苦労するんです。

性に任ずれば道に合う」。
「性に任ずる」とあります。
「性」その人その人の、ユニークなあり方、性質というものが、そのまま「法」=「真実」の現われとしてある、その「ありよう」に、いちいちうち任せておれば、「道」に適う、と言うのです。
美しいものを「いいなあ」と思う、苦痛なものを「嫌だなあ」と思う。それだってそのまんま「性」です。
茶の味にしたってそうです。自分のありようは、自分に起こるハタラキとして、任せておれば、間違いようはないんです。

景徳伝灯録に、「心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば、無喜亦無憂なり」という言葉があります。
「転ずる」まま、「流れに随う」まま、で、「性に任ずる」様子です。

逍遥として悩を絶す」。
その人のそのまんまに打ち任せる、ということは、もうその「性」のほかに、「どうなってやろう」とか、「もっとこういうふうになってやろう」とか、別を求めることが無いんです。
「どこかに行こう」という、「今ここ」の自分のありよう以外のものを、何か標準を定めて、求めているんじゃないんです。
(ここで「今ここ」、と仮に言っておりますが、「今ここ」という何か標準があるんでもないですよ。)
ですから、「逍遥」。何かを目的とする、ということなく、気ままにぶらぶら歩いているだけで、あらゆる苦悩が絶してしまうのです。

道元禅師が、「いわゆる坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり。」(普勧坐禅儀)と言われるところです。
あるいは、「ただわが身をも心をも はなちわすれて 仏のいへになげいれて 仏のかたよりおこなはれて これにしたがひもてゆくとき ちからをもいれず こころをもつひやさずして 生死をはなれ仏となる」(正法眼蔵 生死)と言われます、「ちからをもいれず、こころをもついやさず」の様子でもあるのでしょう。

繫念は真に背く」。
「繫念」というのは、心の状態なり想念なり意識の対象なりを、特定のものに結び付けておこう、ということでしょうね。
「修行」や「修養」をしよう、という人の多くは、始めはここから入るのです。
何か特定の「良い」意識の状態を保とう、とするわけですね。
「利他行をする」でも、「戒律を守る」でも、「仏様を思い浮かべる」でも、「念仏、真言を唱える」でも、「慈悲の心を保つ」でも、「呼吸を観察する」でも、悪いことではないんですけども、「真に背く」と。
「特定の良いあり方」というものを標準にして、そこを目指している限りは、「真実のあり方」には背いている、信心銘冒頭の言葉でいえば、「揀擇」している、ということを言われているんです。

これは相当厳しいことを言われているんです。
というのも、こういった「繫念」でも、やろうとすると、ほとんどの人はうまくいかないんです。
たとえば、「呼吸を数える」なんていうことも、実際やってみようとすると、頭がぼんやりしてきたり、眠くなって居眠りしたり、ということが、起こってくる。まあ経験しない人はいないんじゃないでしょうか。

昏沈は不好なり」。
「昏沈」というのが、その頭がぼんやりしていたり、ウトウトしているような状態ですね。
何か「特定のものに縛られてはいけない」などと言われますと、ただボンヤリしている、というのが、本人としては正しい修行をしている、といったカン違いを起こすようなことがある。これを、いさめておるわけです。
それは、「不好」であると。「今」の「そのまま」のあり方から、わざわざ目をそむけておるのだ、と。

不好なれば神を労す」。
目をそむけて、そこから離れようという「心」が生じておる分、神経を疲弊させているのだ、ということです。
本人は、ボンヤリして、「楽な状態だった」と思うかもしれないが、本当は神経をすり減らしておる。
安心と不安が同時に解決されておる、「大安心」とは、そのようなものではないのです。意識は、醒めているのです。

何ぞ疏親することを用いん」。
「疏親」というのは、なにかを疎んでみたり、親しもうとしてみたりする、ということでしょう。
どうして、「繫念」のように特定のあり方にとどまろうとしてみたり、「昏沈」のように「今のそのままの様子」を避けようとしたりするようなことをするのか、ということです。

「繫念」は特定の目的を持って歩く、「昏沈」はわざわざ立ち止まる。
三祖大師は「逍遥」という言葉で、いずれでもない「中道」を指し示しておられるようです。

お釈迦様は、「煩悩という暴流を、どのように渡りましたか?」と聞かれて、「立ち止まることなく、力むことなく」とも表現しておられます。(「サンユッタ・ニカーヤ」;参考

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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