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わたしには「これを説く」ということがない

マーガンディヤ
「あなたは、多くの王様や偉い人が求めた女や宝物さえも欲しいとは思わないのですか。
それでは、あなたはどのような考えを、どのような戒め・道徳・生き方を、
またどのような状態に生まれ変わることを説くのですか?」

釈迦
「マーガンディヤさん。
『わたしはこのことを説く』ということが、わたしにはないのです。
あらゆる事物に対する執著を、執著であると確かに知って、
あらゆる考え方が考え方に過ぎず事実から遊離している様子を見て、それらに固執することなく、
よく気づいているとき、私に安らぎと静寂が訪れたのです。」

マーガンディヤ
「聖者さま。
あなたは考え方で構成された見解や、特定の説というものに固執することなしに、
<安らぎと静寂>ということをお説きになりますが、
そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

釈迦
「マーガンディヤさん。
『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができる』とは、私は説きません。
『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説きません。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願うこともないのです。」

マーガンディヤ
「もしも、『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができない』と説き、
また 『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教えによって清らかになることができる、とある人々は考えます。」

釈迦
「マーガンディヤさん。
あなたは(自分の)考え方にもとづいて尋ね求めるものだから、
考え方の世界に執著し、迷妄に陥って、この<安らぎと静寂>について微かに見ることもできないのです。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するでしょう。
しかしそれらの三種に関して 動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しません。

そうであったら、『(これこそ)真理である』と何を論ずることがあるでしょうか。
また、『(それは)間違っている』といって、何によって、誰と論争することがあるでしょうか。
『等しい』とか『等しくない』とかいう思いがなくなった人は、何によって、論争を挑むということが起こるでしょうか。

家を捨てて、住みかを定めずに行く出家者は、
村の中で馴れ合うことなく、諸々の欲望を離れ、特定の何かを重んじるということもなく、
ひとつの見解にとらわれて人々に論争を起こすような主張をすることもないのです。

(後略)」

スッタニパータ(4) 八つの詩句 9 より (部分)


禅が成立するはるか以前の初期経典からの引用です。

・『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができる』とは、説かない。
・『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。

と、お釈迦様が禅問答のようなことを言われ、それに対してマーガンディヤさんは、「バカバカしい」と言われます。

さすがに投げっぱなしではなく、その後も老婆親切が続きますが、
禅問答は、禅が成立する以前にも、存在していたと言うことができます。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

キサーゴータミーさんの話

お釈迦様がある村を通りかかったときのこと。村の長老が相談を持ちかけた。

「かわいそうな女がおります。どうかあなたのお力で彼女をお助けください。その女というのは、死んだ子供をいつも抱いているのです。その子は生まれてまもなく死んでしまったのですが、彼女はそれを認めようとしません。ただ眠っているだけだというのです。村のみんなで説得するのですが、どうにも耳を貸してくれません。お助けください」

お釈迦様はその女に会った。

「かわいい子だ。よく眠っているね」

女はうれしそうにうなずいた。

「でもね、私、困っているんですよ」

「ほう?」

「この子なかなか目を覚まさないんですの。だから村のみんなは、この子はもう死んでいるなんてことを言うんですよ」

「それは困ったね」

「聞けばあなたはおえらいお方とのこと。この子を起こすよい方法をご存じないですか?」

「ひとつだけありますよ、よい方法が」

女は目を輝かせた。

「どんなことでもしますか?」

女は大きくうなずいた。

「それでは、3日以内に、この村でまだお葬式を出したことのない家を見つけて、その家の庭にある木を一本切り取り、それを灰にして、この子にかけてやりなさい。そうすればこの子はすぐに目を覚ますことでしょう」

女は大変よろこんだ。

3日後、女は再びお釈迦様のところへ出向いていった。そして目に涙を浮かべ、手を合わせたのである。

「この子はもう死んでおります。この子が成仏できますよう、あなた様のお力をお貸しくださいませ」

(注:この古い村では、葬式を出したことのない家など一軒もなかった。女は指示に従ううちに、「人の死」を受け入れていくように変わっていったのである)

東豊 『セラピスト入門』より>

心について

物事は心が先行し、心が主であり、心より成る
もし人が汚れた心で話し、行えば、苦しみが彼に従う、牛の足に車輪が続くように

物事は心が先行し、心が主であり、心より成る
もし人が清らかな心で話し、行えば、幸せが彼に従う、影が離れないように
(ダンマパダ 第1章; 1,2)

仏陀は「物事は心が先行し、心が主であり、心より成る」という。
「もし人が清らかな心で話し、行えば、幸せが彼に従う」という。

聞いた人は、幸せになるためには清らかな心が大事であるというふうにとるかもしれない。

しかし、「私の心=マインド」が清らかになると思い込み、それを清らかにしようとすれば、苦しみがそれにつき従うだろう。マインドは、どこをどうやっても、清らかにはならない。

清らかな心とは、清らかな「無心=ノーマインド」のことである。

「心」という言葉は、「マインド」と「ノーマインド」という両側面から見えてしまえる言葉だから、注意しないといけない。
日本語の「こころ」には、もともと「われ」という中心がなかったのだろう。「花の心」「茶の心」など、中心のない、境界のない、本質を指し示すニュアンスがある。
そちらのほうの「心」だ。

またいう、

つかまえにくく、動きが速く、欲するがままにおもむく心を
訓練することは善いことだ、訓練された心は幸福をもたらす

極めて見難く、極めて微妙で、欲するがままにおもむく心を
智慧ある者は守るべきだ、守られた心は幸福をもたらす
(ダンマパダ 第3章; 35,36)

仏陀は「心を訓練する」、「心を守るべきだ」ともいう。

心を訓練する、心を守るとはどういうことか。

まるで自分の心、感情、気分などが自分で鍛錬・コントロールできるかのように思い誤ってはいけない。

心を訓練する、心を守るとは。

マインドをノーマインドに解き放つことだ。

以下は、江戸時代の盤珪永啄禅師の言葉であり、心の訓練のありようを説いている。

「仏心は不生にして一切事が整いまするわいの」

「その不生で整いまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて烏の声、雀の声、それぞれの声を聞こうと思う念を生ぜずにおるに、烏の声、雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くにみな一切事が、不生で整いまする。これが不生の証拠でござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来永劫の活如来でござるわいの。」

烏の声、雀の声が、「わたし」のほうから聞こうと思わなくても、そのまんまに聞こえている様子、その「無心」の様子のまんまに解き放っていくということだ。

心に苦痛が起こったときも、喜びが起こったときも、そのまんまに苦痛し、喜んでいる様子、そのまんまでいること。苦楽超然。

それが、仏陀のいう、「心を訓練する、心を守る」ということだ。

だから、仏陀のいう「訓練」とは、「感覚・心に、何の手も加えない、手を出さない、そのまんまにしておく」という訓練であり、世間一般でいう「なにかを習得する、達成するために何かを得ていく」ような「訓練」とは真逆の方向性を持った「訓練」なのだ。

世間でよくいう「心を大事にする」とは、心に起こっていることを事実そのままとして、大事にみていく、つぶさにみていく、無心でみていく、良い悪いの判断なしにみていく、ならば安楽をもたらすだろうが、「わたしの心」として、それをつかんで離さないで、「私の、私の」を大事にし、肥大化させるならば、苦しみをもたらすだろう。

内と外

「自殺したい」人には、自分の命なら自分の好きなようにできるという傲慢さが隠れている。

自分を卑下することと、傲慢さは、同じコインの表裏にある。


釈尊は言う。
『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

(スッタニパータ 第4章 9 より)


「等しい」「優れている」「劣っている」という考え、そのものもないのが、事実に徹底した人のあり様である。


The major segmentation we make is external and internal.
It's a false distinction.
What's external is internal, what's internal is external.

ガンガジ「内なるおしゃべりの止め方」より)


この、「内は外であり、外は内である」ということは、そのようであるとしか言いようがない。

実相においては、内と外という区別は認められない。

我と衆生とが一切、そのものであるから、「私が幸せでありますように」と、「生きとし生けるものが幸せでありますように」が別ではない。

他(外のもの)を傷つけることは、自(内のもの)を傷つけることであり、自を傷つけることは、他を傷つけることである。

そのように実相においてみることによって初めて、傷つけるという不幸が連鎖する生き方から、離れるのである。


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Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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