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猿沢池

うつすとも水は思はず
うつるとも月は思はず
猿沢の池
          玄雄


これは 柳生宗厳(号は石舟斎)が、子弟に遺した 秘剣の極意歌だそうです。

見るということの、真相がここには表されているように思われますが、皆様はいかがでしょうか。

「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」 玄雄

自由

自由とは獨立獨行なり
奉仕さるゝを願はざる處(ところ)
に自由あり
   森田形外  昭和二年七月


自分の行動と、その結果の一切に、責任を負える。
自分の行為の一切に、自分が責任を持つこと。
そこに究極の自由はある。

責任を逃れることに、費やされれる人生は、牢獄だ。

「自立」は、痛みを伴うし、責任を伴う。
その痛みを、責任を、自分以外の誰に
取ってもらおうと願えるものか。
そんなことは、神ですら、できない相談なのだ。
自立して、一人前の人間になるとは、そういうことだ。
「自由とは獨立獨行なり 奉仕さるゝを願はざる處(ところ)に自由あり」 森田形外 昭和二年七月

治すのは如来のわざでござる

最近、森田療法に関心のある人も含めて、会う人によく話していることがあるのですが、なかなか「そうだ」と肯定される人がいません。
悔しいので、ブログに書いておきます。

というのは、こういう話です。

(うつ病で、ご本人の希望により薬物療法を行わず、環境調整と精神療法のみで寛解した方がいました。)
患者さんになんで治ったんでしょう? と聞くと、「さあ・・・わかりません」
こっち(治療者)も、なんで治ったのか? う~ん、よくわからん。
(その時、その時で一生懸命に話を聞き、言えることを言ったということだけは言えるケド)
私の口をついて出てきたのは、「それは・・・良い治り方ですね。」

こういうのが上等の治り方じゃあないでしょうか。

これを、「治すのは如来のわざでござる」の境地と名付けます。

治療者側に、精神療法で「うまく治してやったぞ」というのが残るのは、眉唾です。
「私はこれで治りました」という確たるものをつかむこともなく、生活を送る。
立派なもんじゃないでしょうか。

テーマ : メンタルヘルス
ジャンル : 心と身体

苦痛・煩悶の離脱のふたつの場合

かのデュボア氏などの説得法のように、理論的説明に重きをおいて、患者に対して「病に対する恐怖を念頭より去るべし」とか、「自信を起こせ」とか、「医者を信じろ」とか言うのは、世間一般に言う言葉であって、単に常識的方法に過ぎない。例えば、悲しい時に嬉しく思えとか、空腹のときに満腹の感じを起こせと強要するのと同様である。

そもそもわれわれの精神の活動は自然の現象であって、人為によってこれを自由にすることのできないものである。水の低きにつくことや、夏の暑さや、冬の寒さは人力をもって如何ともすることはできないのと同じことである。

しかるに人々は愚かにも、自分の心を、自分の心で自由自在にすることができるように思い違えているのである。
我々の外的刺激によって起こる感覚、気分などはもちろん、失念や、突然の思い出し、ないし夢や睡眠などにしても、みな必ず因果の法則に支配された自然の現象であって、決して人為的に意のごとく変化させることのできないものである。無念無想となろうと思えば既にその一念を付加することになり、勇気とか自信とかいうものも同じことで、これを獲得しようとして得られるものではない。

これと同じく苦痛とか煩悶とかいうものも、これを脱却しようとしても思う通りにならないのみならず、かえってますますこれを拡大するのみである。

それではこれを離脱するにはどうすればよいか。
それはただ、あるがままにあらせておくということである。

しかしなお詳しく言えば、これには二つの場合がある。
一つは苦痛も煩悶も、そのあるがままになりきることである。言い換えれば、わが心の眼を閉じて、素直に、あるがままに任せ切っていることである。
一口にいえば、絶対に降参し、往生することである。

第二の場合は、苦痛に対して注意の眼を開き、その状況をあるがままに正しく観察し、叙述し、批判しようと試みることである。このようにすれば、その苦痛は自然に客観的なものとなり、主観の執着を離れて、初めてこれを離脱することができる。
それはあたかも対岸の火事を見るようなものである。幽霊のほうに近寄って、その正体は枯れ尾花であったことを見届けるのと同じ道理である。

これに反して、自己の苦痛を周囲の人に訴えて同情を求め、ねぎらってもらおうとしたり、人は自分の苦痛を理解してくれぬとか、同情がないとか言って恨みかこち、あるいはいたずらに苦痛を回避しようと工夫しては、心はますますそのほうに執着して、苦痛はいよいよ増大するのみである。

以上述べたところを要約すれば、神経質治療の主眼とするところは、まずその思想の矛盾を打破することにありということである。
それではこの思想の矛盾はどのようにして打破することができるか。
それは簡単なことで、すなわち人為の策を放擲して、自然に服従することである。
人為の工作をもって、自由に自分の心を左右しようとすることは、あたかも水を高いところにやろうとするように、いたずらに苦痛を増し、煩悶を重ねるのは当然のことである。

であれば、自然とはなんであるか。
夏は暑く、冬は寒く、苦しい時には苦しく、悲しい時には悲しい、これである。
それを、夏は涼しくありたい、冬は暖かにありたい、苦しい時に楽にありたい、悲しい時に悲しむまいと思うのは人情であるが、これがすなわち人為的というのであって、そのあるがままに素直に服従し、これに堪えるのが自然なのである。

昔、洞山和尚が「寒暑到来す如何んが回避せん」との某僧の問いに対して、「何ぞ無寒暑の所に行かざる」と答えた。
それは暑さ寒さのない所はどこにもない。それを避けようとするのはもってのほかだ、ということである。
しかしこの僧はまだその意味が解らないで、重ねて「何處にか無寒暑の所ある」と愚問を発した。
洞山和尚そこで大喝一声「寒の時は闍梨(身体)を寒殺し、熱の時は闍梨を熱殺せよ」と言って、その僧を悟らせたということである。
身体を寒殺、熱殺とは、寒さ暑さにそのまま、なり切れということであって、すなわち寒暑超越の境地を言ったものである。
かの快川和尚の「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言ったのも同様で、暑い時は徹底暑さであり、寒い時は徹底寒さである。しかるに暑さには避暑を思い、寒さに避寒を考えるから、寒暑の苦痛をいやがうえにも増すばかりである。

要するに神経質者は、些細な不快や、当然の苦痛にあまりに関心を持ちすぎ、自分自身の気分に基づいて理想の型に当てはめようとするところに、精神葛藤の苦痛を起こすのである。
すなわち人生の華やかさとか、安穏、気楽さばかりを追って、人生の真の目的、真の楽しみを忘却しているのである。
努力あって成功あり、苦しみあって楽しみあり、悲観あって楽観あることを知らないのである。
それで患者の訴える苦悩そのものは、そもそもその初めの心の置き所を誤ったがために、ますますその苦悩を増長せしめたものであるから、これをもとのありのままの自然に還元すれば、苦悩はたちまち消散するのである。
自然とは、人生の実際の事実であって、これをそのありのままに観、人生は人も我もともに苦痛であると覚悟して、苦しきを苦しみ、悲しきを悲しみ、喜びを喜べばよいのである。

宇佐玄雄 「説得療法」 p61~65 神経質治療の要旨 より (現代表記に改変)


三聖病院初代院長で、森田正馬の初期の弟子の一人だった、宇佐玄雄先生の著書は現在絶版になっていますが、国立国会図書館デジタルコレクションで、閲覧することができます。ありがたいことです。
上に引用したところは、「心を将って心を用う、豈大錯に非ざらんや」(信心銘)との共通性がみられます。

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かくあるべしという なお虚偽たり

森田正馬の言葉に、次のものがあります。

かくあるべしという なお虚偽たり あるがままにある 即ち真実なり


「こうでなければならない」「こうあることが望ましい」「これが理にかなった生き方である」などの、「理想形」、「望ましいあり方」、「本来の生き方」などというものを設定する「かくあるべし」ということは、いまだ真実のあり方ではない。
「かくあるべし」ということがなく、ただ何か別のありようを求めるということがない、「あるがまま」にある、ということが、真実なのである、ということであります。

これに少し余分な老婆親切を付け足してみました。

かくあるべしというも 即ちあるがまま
あるがままに 虚偽なく真実なし
虚偽あり真実ある時 かくあるべしあり


付け足して、邪魔な人もいるでしょうし、かえってはっきりする人もいるでしょう。
表現の違いだけです。
大違いなら、学ぶ途中。
同じことなら、自在の人で、学ぶことはありません。
「斯くあるべしといふ 猶ほ虚偽たり 有るがまゝにある 即ち真實なり」 森田形外

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Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

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