体得とは何か

「体得」について、今去来した言葉を好き勝手に記しておきます。



  1. 誰が体得するのか
  2. いつ体得するのか
  3. どこで体得するのか
  4. 何を体得するのか
  5. 誰と体得するのか
  6. どのように体得するのか
  7. 何が体得を妨げるのか
  8. 体得してどうなるのか
  9. 体得する意味はあるのか
  10. 体得した人のあり方とはどのようなものか
  11. とどのつまり、体得とは何なのか



  1. 誰も体得しない。体得には、「誰」という中心がない。
  2. 今において体得するよりほかにないが、「今」という時間軸も認められない。
  3. この身が覚知できる、一切の現象においてであるから、定まった場所ではない。まさに「どこででも」。
  4. 「何を」と限定できるものではない。体得は、主格・目的格の喪失である。
  5. 体得において自己がないのと同様に他者もない。一切が自己である。
  6. 体得を妨げるものがなければ、「おのずから」「かくのごとし」である。
  7. 「かくあるべし」が体得を妨げる。「かくある事実」が見えないのである。
  8. もとに戻る。「体得」さえも面倒ごとである。
  9. 平和になる。意味を求めて争う必要はない。
  10. その人自身で問題がなく、目の前の人自身で問題がない。
  11. 以上のような言葉遊びは、入り込む余地がない。



言葉は言葉です。
「体得」が先。言葉はあとです。
騙されませんように。

テーマ : 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル : 心と身体

猿沢池

うつすとも水は思はず
うつるとも月は思はず
猿沢の池
          玄雄


これは 柳生宗厳(号は石舟斎)が、子弟に遺した 秘剣の極意歌だそうです。

見るということの、真相がここには表されているように思われますが、皆様はいかがでしょうか。

「うつすとも水は思はず うつるとも月は思はず 猿沢の池」 玄雄

自由

自由とは獨立獨行なり
奉仕さるゝを願はざる處(ところ)
に自由あり
   森田形外  昭和二年七月


自分の行動と、その結果の一切に、責任を負える。
自分の行為の一切に、自分が責任を持つこと。
そこに究極の自由はある。

責任を逃れることに、費やされれる人生は、牢獄だ。

「自立」は、痛みを伴うし、責任を伴う。
その痛みを、責任を、自分以外の誰に
取ってもらおうと願えるものか。
そんなことは、神ですら、できない相談なのだ。
自立して、一人前の人間になるとは、そういうことだ。
「自由とは獨立獨行なり 奉仕さるゝを願はざる處(ところ)に自由あり」 森田形外 昭和二年七月

わたしには「これを説く」ということがない

マーガンディヤ
「あなたは、多くの王様や偉い人が求めた女や宝物さえも欲しいとは思わないのですか。
それでは、あなたはどのような考えを、どのような戒め・道徳・生き方を、
またどのような状態に生まれ変わることを説くのですか?」

釈迦
「マーガンディヤさん。
『わたしはこのことを説く』ということが、わたしにはないのです。
あらゆる事物に対する執著を、執著であると確かに知って、
あらゆる考え方が考え方に過ぎず事実から遊離している様子を見て、それらに固執することなく、
よく気づいているとき、私に安らぎと静寂が訪れたのです。」

マーガンディヤ
「聖者さま。
あなたは考え方で構成された見解や、特定の説というものに固執することなしに、
<安らぎと静寂>ということをお説きになりますが、
そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

釈迦
「マーガンディヤさん。
『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができる』とは、私は説きません。
『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説きません。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願うこともないのです。」

マーガンディヤ
「もしも、『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができない』と説き、
また 『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教えによって清らかになることができる、とある人々は考えます。」

釈迦
「マーガンディヤさん。
あなたは(自分の)考え方にもとづいて尋ね求めるものだから、
考え方の世界に執著し、迷妄に陥って、この<安らぎと静寂>について微かに見ることもできないのです。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するでしょう。
しかしそれらの三種に関して 動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しません。

そうであったら、『(これこそ)真理である』と何を論ずることがあるでしょうか。
また、『(それは)間違っている』といって、何によって、誰と論争することがあるでしょうか。
『等しい』とか『等しくない』とかいう思いがなくなった人は、何によって、論争を挑むということが起こるでしょうか。

家を捨てて、住所を定めずに行く出家者は、
村の中で馴れ合うことなく、諸々の欲望を離れ、特定の何かを重んじるということもなく、
ひとつの見解にとらわれて人々に論争を起こすような主張をすることもないのです。

(後略)」

スッタニパータ(4) 八つの詩句 9 より (部分)


禅が成立するはるか以前の初期経典からの引用です。

・『教えによって、学習によって、戒めや道徳によって、清らかになることができる』とは、説かない。
・『教えがなくても、 学習しなくても、戒めや道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。

と、お釈迦様が禅問答のようなことを言われ、それに対してマーガンディヤさんは、「バカバカしい」と言われます。

さすがに投げっぱなしではなく、その後も老婆親切が続きますが、
禅問答は、禅が成立する以前にも、存在していたと言うことができます。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

臨済のあるがまま

師(臨済)は上堂して言った、
「この肉体上に一無位の真人あって、常にお前たちの面門より出入している。
 未だこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!見よ!」。
その時、一人の僧が進み出て問うた、
「その無位の真人とは、いったい何者ですか?」。
師は席を下りて、僧の胸倉をつかまえて言った、
「さあ言え!言え!」。
その僧はもたついた。
師は僧を突き放して、
「無位の真人がなんとまあ、カッチカチの糞の棒だな!」
と言うと、さっと方丈(居間)に帰った。

(臨済録 上堂3)


ピチピチとした「無位の真人」のハタラキ、それが常に我々の面門(六感)に出入りしている、臨済はその常住ならざるあり様をそのまま体現しているかのようだ。
臨済録」を読むと、その息吹に圧倒される。

「無位の真人」。何のランク付けもない、真実のありよう。
良いでも悪いでもない、善でも悪でも、聖でも凡でも、真でも偽でも、上でも下でも同等でもない。
それは変化しない普遍の真理ととらえられた瞬間、「無位の真人」は、「カチカチに乾いた糞の棒」と言われる。

臨済は、またある時は、
「あらゆる場に臨んで滞らず、十方世界を貫いて三界に自由。一切の個別の世界に入りつつ、少しの影響も受けぬ」と面前で説法を聴いている者たちに向かって、君たちこそが無位の真人に他ならぬと言う。

臨済といえば「無位の真人」と言われるくらい有名な言葉だが、臨済録で「無位の真人」という言葉が出てくるのは、ここ一ヵ所だけのようである。後世においてこの「無位の真人」という言葉は有名になり、一人歩きするようになったようだ。

原典を見てみるに、「乾屎橛(乾いた糞の棒)」とは、「無位の真人」などという余計な概念を立ててしまった臨済自身にも放たれた響きも感じられ面白い。

「無位の真人」は、「無依の道人」とも言われ、臨済は、ほかではこの表現を多く用いた。

しかしやはりそのような状態に、どうすればなれるのか、考えてしまうのが人間である。

臨済は、「無事是れ貴人(きにん)、但だ造作すること莫(なか)れ。祇(た)だ是れ平常なれ。」
ただ、「つくりごとをするな」、「あるがままであれ」と言う。

また師いわく、
(わしの説く法の心は、)凡の世界にも聖の世界にも入り、
浄土にも穢土にも入り、
真実の世界にも凡俗の世界にも入る。
それでいて真俗凡聖の枠付けをすることができない。
諸君、ここのところがわかれば、その場その場で用い、枠付けに一切とらわれぬ。
これが玄旨(奥義)というものだ。   (示衆3)
(君たちその人が、)実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、
場所も持たずに、ピチピチと躍動していることを見て取ることだ。
その人(真人・道人)が発動するさまざまの方便はすべて、
働きとしての跡かたを一切とどめぬ。
だから追えば追うほど遠ざかり、求めれば求めるほど逸れていく。
ここが摩訶不思議というものだ。   (示衆6)

「働きとしての跡かたを一切とどめない」ものとしてこそ、我々は今ここに存在する。
それは、「存在」という言葉さえそぐわないような、圧倒的なリアリティーだ。

「真人」を「道人」と言い換えたのは、「真」という一極を立てる表現を嫌ったのかもしれない。
「より良く」を目指して工夫するなら、表現はその場その場に応じて、変化してやまない。

つかみどころのないものを、つかむことなく、そのまま感じる、浴びる。そして、ほとばしらせる。
言葉づらに、とらわれてはいけない。

臨済義玄像

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

kugla

Author:kugla
マインドフルネス、森田療法、仏教、禅と精神医学

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
リンク
訪問者数
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR